過去の私、現在の私

前回の投稿の「類は友を呼ぶ」では、過去と現在の私の価値観の違いについて投稿した。また、近い距離感の存在についても、『私の記憶』として発信した。
そんな私が今思うことは、よく言う『助け合い』の認識が違ったのだということ。過去の私も、『助け合い』は大事なことだと教わっていた。ただ、当時の私は、自分よりも他人の存在を意識して優先させることだと認識していた。他人の思いに応えることを目的として生きたり、相手の自己満のために自分が我慢して合わせてみたり。しかも無意識で習慣的に。そして、そんな生き方に疲れてしまった人達同士でそれぞれの悩みに寄り添い合う関係性。時には、自分が悩んでいなくても相手を励ますような声掛けをしてみたり、良かれという思いでアドバイスしてみたり。他にも、相手の思考や行動を自分勝手に予測し、それに対するための思考や行動を考え過ぎていた。その結果、自分勝手に起こす言動や行動。

今考えると、自分のことを何様だと思っていたのかと不思議に思う。相手のことを励ましたいと思ったところで所詮相手の問題だし、アドバイスをしたところで聞き入れるかどうかも相手の問題である。逆に、相手が元気にならなかったりアドバイス通りでなかったり。それを理由に自分の感情が更に熱くなったところで、相手に響かない限りどうにもなる訳ではないのだ、ということを最近知った。だから、過去の私のような生き方は、今の私が思う『助け合い』とは大きく異なっている。

では、今の私が思う『助け合い』とは、相手の悩みや困りごとに対して、自分の主観や感覚で思った事をストレートに行動や言動に起こすことである。相手の感覚を主体に考えたところで相手次第なわけだから、自分が話を聞いたことに対して自分の角度で接すること。これにより、私は私の主観な訳なので、相手のその後の反応に対する感情の起伏は変動しない。そりゃ、無関心な訳でももちろんないが、要は、相手の話に対して自分の話をした。ということで、普段の会話とも、きっと大差ない。それくらいの感覚の方が、変に重たくもないし、意外と異なる感覚の話が響いたりする。と私は、自身の経験から学んだ。そうすることが、悩みの脱出を促すきっかけになることもあるだろうし、私の場合は、『いつまでも悩み続けること=自己否定に走る思考』を止める方向性にも繋がった。

最初はなかなか大変だった。大好きな相手から言われることなのに、私のことを励ましたり慰めたりするような言葉は少なかった。そんな気持ちも伝わってこない。悩みは自分の中ではめちゃくちゃ大きいのに分かってくれない。今までの自分じゃ考えられないような反応に対して、私が全く理解できない!となることも沢山経験した。私の発言に対する共感は少なく、本人の感覚の話をしたり。なんてことも多々あった。しかし、そんな経験を重ねた結果が今の私であり、確実に生きやすくなったのである。

私が言いたいことは、要は『互いの価値観をストレートに伝え合うこと=助け合い』だということ。互いに無理もしないし、且つ、自分1人の世界観からは確実に視野が広がる。悩みから脱出するかしないかってのは結局は本人次第。だから、他人が直接的な何かをするなんてことは、自分が試行錯誤した結果不可能だった時、直接的に頼った時ではないだろうか。逆に、頼ったところでそれに応えるのか否かも相手の意思次第だと私は思う。

生きている人間には、必ず意思や個性があると思う。心の使い方や生き方に対して、基本的に正しいも間違いもない。自分には考えられないことでも他人の異なる考え方を知った時、初めて納得できることは意外にも多く転がっている。と私は思う。肯定も否定も、所詮自分の価値観でしかない。狭い視野の中でしか生きられない人間になってしまう方が、私は怖いと考える。世の中は、生きている人間の数だけ異なる価値観が溢れているはず。そんな中、関わる人全てに向けて、他人の為に生きたり反応に左右されたりしては、『一生疲れる人生』になってしまうと危惧するようになった。気づいたからには、この先の私の人生は、自分の生き方を楽しみ、そんな自分の経験や価値観を発信したいと考えた。発信するだけでなく、自分も新たな価値観を知るきっかけにしたい。それが、近い距離感の人達に対しては普段の会話の中で、ブログを通しては不特定多数の人達に対して、『純粋な気持ちのままに心を通わせられる交友関係』に繋げたいと願う私なのである。

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