見出し画像

【エッセイ】徳を積みがちな人生

突然だが、道を歩いていて見知らぬ人に声をかけられたことはあるだろうか。

居酒屋のキャッチや、よくわからない宗教や謎なセールスのようなものではなく、純粋に困った人が発する「あのぉ、すみません…」というヤツだ。どこぞへの行き方を尋ねられたり、ちょっとした困りごとを乗り越えるべく、助けを求められたりする、アレだ。

ドラマや漫画でありがちな、「あのぉ、すみません…」なのだが、実は私は、非常にこのセリフをよく聞く人生を歩んでいる。
場合によっては、声をかけられることこそなくても、「いやこれ、状況的に私がどないかせざるをえんやつー!」というイベントが発生しやすいようなのである。

例えば、おばあちゃんが目の前で転ぶとか、レジの前に並んでいるおじいちゃんが小銭をぶち撒けるとか、ベビーカーから小さな靴が小さなおててによって投げ捨てられる瞬間を見てしまうとか…。
ホームで具合が悪くなった人を目の当たりにして、駅員さんを呼びに走ったこともあるし、何なら救急車に同乗して、倒れた人に病院まで付き添ったことすら、ある。
ざっと思い出すだけでも、私が抱えているこの手のエピソード数は20をゆうに越えている。

人ときちんと比較をしたことがないので、実際はどんなものなのかよくわからないが、上記の経験たちから私の人生は、ちまちました「徳を積みやすい人生」と認識している。

そして私はここまで、そういう人生を概ね楽しんで生きている。
元々、人と話すことは大好きだし、教員をしていたときに自覚したけれどとても世話焼きだ。人見知り(実は)なタイプではあるのだけど、世話焼きスイッチが入ったらコミュニケーション能力が爆上がりするという、謎スキルを会得しているような気がする。

また私自身、困っている人がいたら手を延べるのが「普通」と思えるような、ありがたい環境で生きてきた。この幸せな人生背景も、私の生き方に多かれ少なかれ関係はあるだろう。
私の周りには、親も含め「善良」で「心根が優しい」人が多かった。

そういうこともあって、私の座右の銘は「情けは人の為ならず」なのだ。

自分が今この人をサポートしたら、いつかどこかで巡り巡って、自分が困っているときに誰かが助けてくれると信じている部分がある。
その助けを受けるのは、もしかしたら自分じゃなくて、私の周りの人たちかもしれない。それはつまり、私がどこぞのマダムをお手伝いすることで、もしかしたら私の母や祖母が困ったとき、誰かが助けてくれるかもしれない…。

そんなちょっとした下心も込みで、私は日々ちまちまと徳を積み続けている。下心と徳という、相反するようなものを、無理やり両脇に抱えて生きているのだ。

そういえばつい先日は、エスカレーターでうまく乗れず、乗り口でモタモタなっているおじいちゃんを見かけた。
戸惑っているのは誰の目にも明らかなのに、誰も声を掛けられていないというちょっぴり胸が痛い状況を見かねて、おじいちゃんに声を掛け、腕を組んで一緒にエスカレーターに乗った。声を掛けられない人を、責めるような気持ちは全くない。こういうことは、できる人ができるときにやればいいのだ!

ということで、いつも通りサクッとお手伝いをして、笑顔でおじいちゃんと別れた後にふと思い至ったことがある。

…もしかして、私がこれだけ徳を積むチャンスがあるのは、前世に徳を全く積まなかった負債を返済しているからなのでは…?

一瞬目を伏せて、落ち着いてぐるりと考えてみたけれど、考えたところで答えなぞわかるはずもなく。

まあいいや、これからもぼちぼち徳を積み続けて、可能なら今世で宝くじを当てるか、来世でスーパー美人(ネーミングセンス皆無)に生まれよう。
そんなことを思い直して、もはや下心まみれになっている「徳」を抱えて家路を急いだのだった。


(1550文字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?