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【ショートショート】 君と、花の名

──俺は、花の名前を全く知らない。

 いや、全くは言い過ぎか。
 タンポポとかサクラとか、ヒマワリくらいは認識している。あとは大きく「花」という括りで認識していて、不自由することなく生きてきた。

 そんな俺が、花屋の前にいる理由は他でもない。夏風邪で寝込んでいるばあちゃんに、花でも買って行ってやれという、気まぐれな親父直々の命令が下ったからだった。

 親父には昔から頭が上がらない。一応「ええ…面倒くせえなあ」と抗ってみたものの、それを覆すことはできなかった。

 それにしても、花屋に来ることになろうとは…。
 そもそも自分の住む街に、花屋があることすら知らないくらい無縁の世界だ。どうしても気恥ずかしさが勝ち、近くまで来たものの、スマホを弄るふりをしながら様子を伺うハメに陥ってしまった。
 もう、かれこれ十分は経つ。気まずすぎるので、店員にばれていないといいのだけど──。


──私は、人の名前を全く覚えていない。

 いや、全くは言い過ぎか。
 家族の名前や、数えるほどしかいない友人の名前くらいは把握している。あとは大きく「知り合い」「それ以外」と認識していて、何とか生きてきた。

 昔から、どうしても人とその顔を結びつけて覚えることが苦手だった。先生に用事があるときは、職員室に行って先生を呼んだ。クラスメイトに用事のあるときは、事情を知っている友人の力添えをもらい、何とかやってきた。

 そんな私が、アルバイトで花屋にいる理由は他でもない。不思議なことに、花の名前は昔からよく覚えられたからだった。

 それにしても…と、店の入り口に視線を向ける。
 そこには十分以上、不審な男子高校生がスマホを弄りながら立っている。盗撮…?何を?もしかして、私?まさかあ、なんて脳内会議が展開される。

 店長は出払っていてまだしばらく戻らない。さて、どうしたものか──。


 腹を、くくる。

 俺はスマホを鞄に入れて、店に一歩近づいた。

 私は花の位置を整えるような顔をして、店頭に一歩近づいた。

 ウィーンと自動ドアが開き、店内の冷えた空気と夏の外気が混ざる感覚が、図らずも見つめ合うことになった二人を包む。

「いらっしゃいませ」
「あっ、どうも」
「…何かお探しですか?」
「えっと、あの花を…」

 いや、ここにあるの全部花か、と彼は口元に手をやりつつ呟く。彼女はそれを見て、思わずふふっと笑ってしまう。
 ピンと張り詰めていた空気が少し緩む感じがした。

 花に明るくないお客さんは、そんなに珍しいわけではない。特に男性が、照れくさそうに店内に入って来ることは、これまでにもままあった。
 店外にいた十数分は、迷いの時間だったのかと彼女は理解し、そっと彼に水を向けた。

「…どなたかに、贈られるお花ですか?」

 彼はほっとしたように頷き、「ばあちゃんに」と答えた。彼女の中の警戒心は、花が開くようにゆっくり解けていく。

「これにしようかな…」
 居心地悪そうな彼は、手近にあった小ぶりな仏花のアレンジを、とりあえずというような顔をして指す。ということは、彼のお祖母さんは今は亡き方かと思いかけて、念のために確認を取る。

「どちらに持って行かれるんですか?」
「あ、ばあちゃん最近体調悪くて。お見舞いに」

 彼女は、ほうと小さくため息をつく。確認をしてよかった。ご存命で具合の良くない方に、仏花を贈るなんて、あまりに不謹慎すぎる。

「それなら、何か簡単にアレンジを作りましょう。こちらは…お仏壇などに供えるものになるので」
「あ…!そうなんだ、知らなかった。ありがとうございます」

 素直に礼を述べ、あぶねーと頭を掻く彼に、気をよくした彼女は予算を聞き、テキパキとアレンジを作る。

「すごいですね、花とか俺全然わからなくて」
「ふふ。きっと私が知らなくて、あなたが知っていることもたくさんありますよ」
「そういうものかもしれないですね。知っている世界の被っていない者同士が、それぞれの知っている世界を持ち寄れば、知っている世界が広がるというか…」

 私より年下だろうに、なかなか聡明な子だなと彼女は感心した。

「…そうですね」

 知っている世界の被っていない者同士が、それぞれの知っている世界を持ち寄れば、お互いの知っている世界が広がる。

 彼の言葉を、心の中でゆっくり反芻しながら手元のアレンジをそっとラッピングする。

「リボンのお色はいかがいたしましょうか」
「この花みたいな色は、ありますか?ばあちゃん、こういう色好きで」

 彼が示した花の色を見て、彼女はそっと頷き似た色のリボンをかけた。そして、言う。

「その花の名は、キキョウといいます」
「キキョウ…」
「では、こちらで」
 小ぶりなアレンジを手渡し、お金を受け取る。

「ありがとうございました!俺、花屋とか初めてきたんです。助かりました」
「是非、気兼ねなくまたお越しください」

 嬉しそうに頷いて、彼は自動ドアへ向かう。ドアが開く一歩手前に立ち止まり、ふと顔だけ向けて彼女に言う。

「キキョウ、覚えました。次はまた違う花の名を教えてください」

 彼女は笑い「あの、お名前伺ってもいいですか?」と問う。

「花井です!」

 迷いなく答え、笑い返してくれる彼の顔を見て、彼女は「花のついた名前ならあるいは…」と、心の中にその名を握りしめ会釈をした。

(2143文字)


=自分用メモ=
花にまつわる作品を書く機会があり、そのときの副産物を育てたもの。
視点の切り替えを、いかにして無理なく表すかという点に悩み、調整して書き上げた。最近は、話の中での視点切り替えの練習をしている。難しいー!

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