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【ショートショート】 ホットミルクの呪い

 寒くても暑くても、眠る前にはホットミルクを飲む。
 それは僕が物心ついたときから続いている習慣の一つだ。どんな効果があるのだったか…母だか祖母だかに教えられたはずだけど、もうすっかり忘れてしまった。ただ20年近く続いてきたその習慣はそう簡単に抜けることもなく、何なら飲まないと眠れないくらいに僕の中に定着していた。
 嬉しいことがあった夜も、悲しいことがあった夜も、僕は欠かさずホットミルクを飲んで眠りについた。旅先ではホットミルクの調達が難しくてなかなか寝付けないくらいに自分の中に染み込んだそれを、一種の呪いのように感じるくらいだった。

 そんな僕を、いつもきみはマグカップの湯気越しに見つめてきた。付き合ってしばらくした頃、初めて僕の部屋に泊まったきみは「ホットミルクの呪い」に蝕まれた僕を少し笑ってから、「わたしにも入れてよ。」と言ってくれた。数回目のデートでは、ホットミルクを一緒に飲むために、色違いでお揃いのマグカップを買いに行った。今、棚の中に二つ並んでいるものだ。

 「ちょっと蜂蜜を入れたら、甘くて美味しかったよ!」
 ある夜きみは、笑顔で僕にそう言った。
 「昨日の夜ふと気が向いて試してみたんだ。」試して欲しくて、来るときスーパーで買ってきちゃったの。きみは嬉しそうに蜂蜜の小さな瓶を差し出しながら続ける。おお、いいねと返事をしてありがとうと受け取った。
 その夜から、ホットミルクに蜂蜜を少し垂らすのが、僕らの新しい習慣になった。

 それから僕らは、夜な夜なホットミルクを飲んだ。寒くても暑くても、何杯も何十杯も…。漠然としてはいたけれど、この先もそんな夜がずっと続くと思っていた。それなのに、些細な言い合いをきっかけにして、僕らの日常は突然終わった。

 お互いの価値観や生き方をすり合わせて、お互いに理解してきたはずだったのに、どうしても譲れないものがぶつかり合ってしまった。生半可すり合わせようと努めていたがために、よりいっそう、その譲れないものは浮き彫りになっていて、もうどうしようもない問題なのだと気づかされることになった。

 「これ以上は歩み寄れないね。」
 彼女は静かにそう言った。
 「あなたに我慢をしてほしくはないし、わたしも我慢し続けていくことはできないよ。」
 僕はゆっくりと息を吐いてから、そうだね、と呟く。

 嫌いになったわけじゃないのに、何ならお互いまだ好き合っているのに、一緒にいる未来が見えないなんてことがあるとは思わなかった。二人して散々泣いて、泣き疲れて黙りこみ、夜に置き去りにされたような気持ちになった。

 「ねえ、ホットミルク飲もうよ。」
 長く続いた沈黙をそっと破り、彼女は僕の目を見てそう言った。
 「いいよ。」
 二人で並んでキッチンに立ち、いつものようにホットミルクを作る。もちろん仕上げに蜂蜜を垂らす。熱いくらい温めたミルクを、二人で静かにゆっくり飲む。

 それが僕らの最後の夜になった。翌朝、僕の部屋にあった細々とした荷物をまとめ、彼女は僕の元を去っていった。

 …もう、1ヶ月も前の話しである。まだ、1ヶ月……?キッチンには彼女が買ってきた蜂蜜の瓶が目に留まる。そろそろ無くなりそうだ、買い足さなくては……。

 僕にかけられた「ホットミルクの呪い」は、昔よりも甘くなって僕に残っていることを不意に自覚させられる。より強くなったその呪いはまだしばらく、解けそうにない。


(1401文字)


=自分用メモ=
久しぶりに男性視点で書いた。はじめは一人称を「俺」にしていたが、ホットミルクとの相性が悪いように感じて「僕」に変えた。「きみ」を「彼女」に切り替えることで登場人物との距離感を変えてみたくてタイミングを悩んだけれど、変えないのもありだっただろうか。うーん、悩ましい!笑

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