【思考】教え子の存在
大切にしたいので、いつかしっかり書きたいなと思っているのだけど、私は今なお教え子たちの存在に大きく支えられていると思う。
卒業から何年も経とうというのに、彼らは今でも不意に連絡をくれる。
連絡の内容は何か大きな用事があるときもあるし、些細なことを伝えてくれるときもある。本当にその内容はさまざまで、私は都度タイミングの合うときにできるだけ早く返信をしたいと思っている。
結婚・出産の報告、仕事の悩み、転職の相談…。年を重ねる毎に、その内容は相応に変化していく。
何がありがたいって、そういうことを伝えてみようと思う「大人」に私が今でもいるという事実だ。彼らにしてみたら、きっと私は永遠に「大人」のくくりに入っているだろうから、がっかりはさせないように、それでいて同じ社会人としての敬意を持って応対するようには心がけている、つもりだ。
教員をしていたときから、ずーっと念頭に置いていることがある。
それは「親以外に無償の愛情を注いでくれる大人がいてもいいじゃないか」ということ。これはもはや、仕事云々に限った話ではなく、私の生きる上での考え方なのだけれど、失敗したら一緒に考えて、泣くときには一緒にわんわん泣いて、笑うときには一緒にお腹を抱えて笑って…周囲の人間に対して、そういう人になりたかった。だから、そういう大人でいようと努めて教壇に立ってきた。もちろん、無理のない範囲で。
だから、生徒たちに変な大人だと思われて良かったし、面倒くさい大人だと思われても気にしなかった。彼らが卒業するとき、私は「これから先、私とあなたたちは教師と生徒の関係を超えて、同じ人生を生きるものとして『人生の友達』になれたらいいなと思っている」というような声かけをした記憶もある。
そういった時間が時を経て、じわじわ実を結び、今に至っているような気がする。
この先も私はきっとずっと、勝手に彼らの心配をし続けるし、耳に入った嬉しい話に小躍りするし、その行方を見守り続けるし、その幸せを願い続けると思う。
教員って、素晴らしい仕事だ。
見守った生徒の数と同じだけ「別な人生」を見せてもらえる。私の歩まなかった人生の形を隅っこからこっそり見せてもらえる。別に何をするでもない、ただもう、そっと見守ってその幸せを願える人が増える。たくさんの人の幸せを願えるって、なかなかハッピーなことじゃないか!
そして、いつか何かに躓いて「どうしよう」と行き詰まったときに、ふと思い出してもらえる「大人」の一人であればいいなとも、思っている。
旅は道連れ、世は情け。
人生という長い旅において、仲間は一人でも多い方がいい。私はこれからもずっと、彼らの「仲間」でい続けたいと思っている。
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