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アップロード、ヒトミさんの場合(15)

「生活保護を申請しますか?」


 お正月、ヒトミさんはマチコさんと二人でゆっくりと過ごした。小学生のときに母親を亡くしたマチコさんは、父親が再婚相手と暮らしている実家に帰る気はないらしく、「何だかここが実家なような気がしますねえ」と、穏やかに笑いながら言った。

「そうだね、私たちが実は姉妹で、いまにも両親が買い物から帰って来るといいね」
 ヒトミさんがそう言うと、マチコさんがふと真顔になったので、ヒトミさんは急いで、さて、お餅でも焼こうよと提案した。
「じゃあ私はきな粉で!」
 マチコさんはきな粉に砂糖をたっぷり入れて、ヒトミさんがちょいとつまんで入れようとした塩の分量が多過ぎるとヒトミさんの指の動きを阻止し、二人してわあわあ言いながら、少し焦げ目のついたお餅をお湯に通してから甘いきな粉に投入した。

 きな粉餅を食べ終えると、また再びお餅を焼いて、今度は海苔でくるんで醤油につけて食べる。結局二人で六個のお餅を食べて、リビングのソファにごろりと寝転んで、寝正月だと言いながら、箸が転んでもおかしい年頃の娘たちのように、いつまでもくすくすと笑っていた。

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 お正月が明けて、マチコさんが仕事に出掛けると、ヒトミさんも仕事を探そうと、求人情報誌を見つめる日々を送った。近くに大きな老人ホームや介護施設があったから、仕事はたくさんあった。ヒトミさんは接客や飲食の仕事が好きだったけれど、いまは表に出るような仕事は避けたかった。誰にも会わなくて済む仕事をしたかった。
 
 東京から離れた町で、ヒトミさんの夫の休日の動線から逆方向にある町で、夫や夫の知り合いに見つかる心配はほぼなかったけれど、一パーセントの不安の種さえ排除したかった。誰にも見つかりたくなかった。

 心の内に巣くっている恐怖心が、不自由な気持ちをもたらしているのだとわかっていたけれど、一度芽生えて定着してしまった恐怖心を、どのように退治すればいいのか、いまのヒトミさんにはわからなかった。

 平穏も不安も、心の持ち方一つなのだろうけれど、いまはまだあの人の妻であるという事実が、ヒトミさんの心に重くのしかかる。紙切れ一枚の問題なのに、いまは別居しているから気にしなくてもいいはずなのに、その紙切れ一枚がもたらす恐怖。

 ヒトミさんは、結婚していなければ別れることは簡単だっただろうかと考えて、即座に否と結論づける。結婚する前に、何度か別れようとしたことがあったのだけれど、全く取り合ってもらえず、言葉巧みにしおらしい態度を見せる姿を見て、この人と関わってしまった以上、もうこの人からは逃れられないのだと諦めた。
 そして、この人の笑顔を信じよう、基本的には優しいし、悪い人ではないんだから、私にも欠点は山ほどあるのだからと自分に言い聞かせた。優しさと思いやりが全くの別物であることに、その頃はまだ気づいていなかった。

 ある夜、マチコさんが縫いぐるみにくるみボタンの目をつけながら、「でも良かったですね、結婚してたから裁判で別れられるんですよね。早く縁が切れるといいですねえ、あ、縁切寺に行くといいかもしれないですよ」と言った。ヒトミさんは、ああ、マチコさんのシンプルさがとても好きだとしみじみ思った。

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 町の中心部にある弁護士事務所は、古いビルの二階にあって、インターホンを押して名乗ると、鍵の閉まっていた分厚いドアが開き、とても知的で有能そうな女性が出迎えてくれた。
 女性は、衝立で仕切られた小さな会議室のような空間に案内してくれて、ここでお待ちくださいと言い、ヒトミさんが緊張して座っていると、茶柱の立った美味しい緑茶をそっと出してくれた。

 弁護士さんは、写真で見た通りの優しそうな人だった。恰幅のいい、のんびりした印象で、少し話をしただけで頭の良さと正義感の強さがわかり、この人になら頼れると直感的にヒトミさんは思った。弁護士さんが、ヒトミさんのためにあれこれ策を練ってくれるのを見て、その場ですぐに契約書を交わした。

 弁護士さんは経験値から、ヒトミさんの夫のようなタイプは婚姻費用を出すことを渋るだろうから、「そのうち離婚には応じるとは思われますが、調停委員は自分たちで解決したがる人が多いから、なるべくなら裁判にした方が早く解決するかもしれません」と言った。東京の裁判所まで出向いてもらうことが申し訳なかったけれど、弁護士さんは笑いながら、大半の仕事は東京なんですよと言うので安心した。

 法テラスの制度を使う条件は難なくクリアしているヒトミさんに、弁護士さんは、「生活を立て直せるまで生活保護を申請しますか?」と、当たり前のように聞いた。ヒトミさんはびっくりして、いえ、頑張って働きますと言ったけれど、事態が思っているより深刻なことに思い至った。そして、万が一の場合、セーフティネットがあるということを知り安堵した。

 ヒトミさんは、裁判をすることには少し抵抗があったので、なるべくなら穏便に離婚したいと思ったけれど、調停を申し立てた時点で、もうすでに穏便ではないのかもしれない。

 時々かかってくる電話で近況を報告している夫の両親から、裁判だけはやめてくれと言われていたが、それならば息子を説得してほしいと思っていたヒトミさんだったけれど、夫の両親は、一人息子を恐れているようにも見えたので、それは言葉にしなかった。

 ヒトミさんは、いまどこにいるのか義父母にも絶対に明かさなかったけれど、義母はいろいろと察してくれて、義父に内緒で、ヒトミさんの逃亡資金をヒトミさんの口座に振り込んでくれて有り難かった。昔気質の夫と息子を持つ義母の苦労を思うと、ひどく心が痛んだけれど、義母の姿に自分を重ね、人間の尊厳を守るためには闘うことを辞してはいけないという気持ちにもなった。
 
 弁護士事務所を出て、履歴書を買って帰った。履歴書を書くのなんて何年ぶりだろうとヒトミさんは考え、十数年ぶりかもしれない履歴書の書き方が、昔と変わっていないことを祈った。大昔には、履歴書に本籍を書く欄があったが、いまはなかった。ヒトミさんは、配偶者のあるなし欄には丸をつけずに、近所の海辺にある、自立型有料老人ホームのパート社員の求人に応募した。

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 履歴書を投函した翌日に連絡があって、その翌日に面接に行き、即採用となった。人手不足の業界らしく、介護の資格がなくても介護の仕事につけるし、清掃や食堂での配膳など、どの職種でも選ぶことが出来た。
 ヒトミさんは、面接時に見かけた清掃スタッフの制服が気に入ったので、清掃の仕事を選び、人事の人に事情を話し、働くときには旧姓を名乗らせてもらうことになった。
 
 とりあえず仕事を見つけたことで、ヒトミさんはホッとした。着てゆく服もないヒトミさんだったから、素敵なベージュの制服を着て、真新しい白い靴を履いて働けることが嬉しかった。

 きれいな四階建ての老人ホームで、まずは全ての床に掃除機をかける。それから掃除用具セットの積まれたカートを押して、各階の手すりを拭き、図書室や娯楽室のテーブルや棚を拭き、最後に大きくて長いウェットシートをつけたワイパーで床を拭き上げる。窓ガラスも磨き上げる。別料金を支払う入居者の方の部屋に入って室内の掃除をする。ヒトミさんは元々掃除が好きだったし、黙々と作業をしていると、その間だけは不安を忘れられて助かった。

 そのうち、ヒトミさんは入居者の方々の顔と名前を覚える。入居者の方々は、ヒトミさんの制服の名札を何度も声に出して読みながら、ヒトミさんの名前を覚えようとしてくれるので、その繰り返しが楽しくてヒトミさんは笑顔になる。各階のエレベーターの前にあるソファに座って世間話をしている上品なおばあさんたちと、束の間一緒に世間話に興じることもあり、ホームでの仕事は楽しかった。

 施設長は性格のきつい女性で、金切り声でいつも誰かを叱っていたが、いまのところ彼女の怒りはヒトミさんには向けられていなかったから、休憩室でスタッフたちの愚痴を聞きながら、人間関係の煩わしさもどこか他人事のような気がしていて、同僚たちの会話に交じっていても現実感が伴わないのは、ヒトミさんの生活がかりそめの暮らしだからなのかもしれない。

 仕事を終えると、海辺の道をバス停二つ分歩いてシェアハウスへ帰る。ヒトミさんの部屋はあるとはいえ、その部屋に自分の家具はなく、十分な服もなく、靴は履き古したスニーカー一足きり。毎日仕事に行っても、自分の部屋に帰って来ても、ヒトミさんの心はどこか空虚で、油断すると絶望感に見舞われそうになったりするけれど、マチコさんの存在と、ホームの入居者さんたちが向けてくれる笑顔が、いまのヒトミさんの命綱だった。

 弁護士事務所へ行く日は仕事を休み、二回目の調停日にも休みを取った。ヒトミさんの希望は離婚することだけだったから、弁護士さんとの打ち合わせはすぐに終わってしまう。でもヒトミさんの心情を理解して寄り添ってくれる弁護士さんと話していると、優秀なカウンセラーと話しているような気分になって、ヒトミさんの心は和らいだ。

 二回目の調停日には、弁護士さんと一緒に行けるので心強く、裁判所で夫と鉢合わせしないよう事前に取り計らってくれていて、裁判所の入口で、ヒトミさんを守るSPのように周囲を見回してくれる弁護士さんの存在が有り難かった。「ご主人の姿が見えたらすぐに教えてください」と、緊張しているヒトミさんを気遣ってくれる弁護士さんが頼もしかった。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん


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