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アップロード、ヒトミさんの場合(最終話)

ヒトミさんは泣いていない


 翌日、ポンちゃんが作ってくれた美味しいブランチを食べたあと、ヒトミさんはバスに乗って実家のあった町へ向かった。少しだけ二日酔いがあったけれど、それすらも楽しいと思えたヒトミさんは、バスの中から懐かしい景色を眺める。

 終点のバス停で降りると、日曜日だというのに町はしんとしていて、いまヒトミさんが住んでいる海辺と似たその町は、時が止まっているように感じられた。

 小さな漁港から、恐る恐る細道を入ると、そこにあるはずのヒトミさんが育った家は、まだ確かに存在していたけれど、いまは知らない家族が住んでいて、玄関脇には子ども用の自転車が置いてあり、自転車に乗れないヒトミさんは、この家がもう、自分の実家ではないのだと実感した。

 ずいぶん古くなったその家をぼんやりと眺めていると、まるで一度も住んだことのない家のようにも思えてくる。母が亡くなったあと、しばらく一人で父がここにいたことが信じられなかった。父親がホームに入るときに片付けた家は、当たり前だけれど、もうヒトミさんの実家ではなかった。

 母親が亡くなったとき、ヒトミさんは悩んだ。夫がいなければ、この家で父親と最後のときを過ごしていたかもしれない。夫がいても、ここで父と二人で暮らしたいと強く思った瞬間が何度もある。でもヒトミさんの父親は、ヒトミさんに自分の人生を生きるよう望んでいたから、双方が安心する選択をしてホームに入った。

 自分の人生、自分の人生。ヒトミさんは独り言を言いながら、海へ行く。
 圧倒的な青い海。青い空。ヒトミさんは堤防を乗り越えて、堤防のすぐ下まで積み上げられたテトラポットの上に立つ。
 それから無意識に、隣のテトラポットへ移ると、フナムシが素早く逃げ惑うのが見え、久しぶりに見るその姿が懐かしかった。ヒトミさんは子どもの頃、フナムシ帝国を崩壊する巨人になった気分で、テトラポットの下から湧いてくるフナムシを蹴散らしながら、テトラポットの上を飛び跳ねていた。

 いまその頃を思い出して、コンクリートの塊を渡り歩いてみるが、かつてのように身軽には飛び移れない。大きくなった身体と、バッグを落としたらどうしようという不安が、ヒトミさんの一歩一歩を重くしている。

 ヒトミさんは思案して、バッグをテトラポットの一つに置いた。それから、ふう、と力を抜く。そして、落ちたらどうしようなんて思ってしまう恐怖心を取り払い、ひょいひょいとテトラポットを渡ってみる。長い長いブランクを経ていたが、案外うまく渡ることが出来て、ヒトミさんは楽しくなってくる。

 ぽこんぽこんと、海水がテトラポットの隙間に入り込んでくる音がして、子どもの頃の夏休みの記憶が蘇ってくる。漁船が立てる波しぶきの音とエンジン音は、明るい朝陽の記憶を蘇らせる。想像していたより悲しくなかったのは意外だった。ヒトミさんは、自分が育った海に行ったら、きっと泣いてしまうと思っていたのだ。けれどいま、ヒトミさんは泣いていない。

 ヒトミさんは悟った。あんなに帰りたいと切望していた故郷はここではなく、すでにヒトミさんの内に存在していて、想うだけでいつでも行ける場所だったのだ。

 身も心も軽くなったヒトミさんは、両親の納骨堂のあるお寺へ行き、三十四番の鍵を開け、両親の遺骨の入った小さな空間を覗く。その狭い空間の先に、ファンタジー映画で観るような、広大な素晴らしい世界があるように思えたヒトミさんは、その世界に居るかもしれない両親に、何とか元気ですと伝えてから鍵を閉め、バスに乗ってポンちゃんの家へ戻った。

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 月曜日、仕事が休みのポンちゃんが、ヒトミさんを空港まで送ってくれた。
「頑張ってね、あ、頑張ってって言っちゃいけんやったね」
「うん、頑張るよ、大丈夫よ」
「私もしばらくうつで病院行ったけど、病院行ってうつって言われたら何かすっきりしたとよ」
「ああ、わかる。やっぱりそうやったとかって安心出来るよね」
「そう、まあ、本当のうつじゃなかったのかもしれんけど、まあ、いまだにフルタイムでは働けんけど、まあ、ぼちぼち行こうね」
「うん」
 
 ポンちゃんの車が走り去ってから、ヒトミさんは空港の売店でマチコさんにお土産を買い、飛行機に乗った。
 
 ヒトミさんはいま、恐れを手放していた。いつかまた反動が来るのかもしれないが、反動が来たときは来たときだ。もう夫のことも怖くない。楽しかったことを思い出せるほどにもなっている。裁判所で、五十万払えば離婚してやると言っているらしい夫のことを、かわいいとすら思えた。夫の母はそれを聞いて、私が肩代わりすると言ってくれている。

「ごめんねヒトミちゃん、私の育て方が悪かったの」
 義母はそう言って電話越しに泣くが、悪いのは義母ではないとヒトミさんは思っている。夫は生まれて来るときに、たまたま良心を持って来るのを忘れただけなのだ。ただそれだけのことだ。
 
 ヒトミさんは、義母のことを案じていたけれど、ヒトミさんが夫へ支払う慰謝料を肩代わりすることで、義母の罪悪感が少しでも減るのなら、それはそれで良いのかもしれないと、ちょっとクールにもなっている。
 弁護士さんは、年内にはカタがつくでしょうと言っている。年末には事件の解決度が上がるそうだ。みんな、年内にすっきりしたいのだ。

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 老人ホームのパート仲間が、ヒトミさんに連絡をくれた。山井さんの部屋で暴言を吐いた看護師が、あのあと解雇されたのだと教えてくれた。強い言葉に傷ついた山井さんがしばらく寝込み、山井さんの息子さんが行政に訴えて、県の調査が入ったのだという。それ以前にも、その看護師に暴言を吐かれていたスタッフが何人も労働基準局に訴えていたことと相まって、看護師は処分され、施設長も謹慎中。その二人と仲の良かった意地悪な介護士も、居心地が悪くなったのか、今月いっぱいで辞めるのだと教えてくれた。

「戻って来ても大丈夫よ、あなたはヒーローよ」
 同僚の言葉にヒトミさんは苦笑する。ただ逃げただけなのに、ヒーローになれるなんて。
 そして、ヒトミさんが休んでいることを心配してくれているらしい入居者さんたちから、近所の喫茶店で会いましょうという伝言を預かったという同僚が、その店の場所を教えてくれる。

 ホームの中で、比較的元気な入居者さんたちが、散歩がてらにその喫茶店によく行っているのは知っていた。ヒトミさんも時々誘われたが、時間が合わなくて行ったことはなかった。

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 指定された日は、偶然にもヒトミさんの誕生日だった。
 午後二時、ヒトミさんが海辺の小さな喫茶店へ行くと、上野さんと山井さんと片山さんと石田さんと野島さんと斎藤さんご夫婦がいた。

「お帰りなさい、九州へ帰ってたんですって?」
 今日はラメ入りのグレーのセーターを着た、いつもお洒落な片山さんが言う。
「美味しいものいっぱい食べてきた?」
 以前美味しいステーキ肉を焼いてくれた野島さんが言う。
「大丈夫? あのときはごめんね」
 髪を洗いたかっただけなのに傷ついてしまった山井さんが気遣ってくれる。
「ねえ、これ、面白かったのよ」
 読み終えたばかりだという翻訳小説を石田さんが差し出してくれる。
「ここはね、そんなに美味しくないけど、チーズケーキならまだマシよ」
 上野さんが大声で言うので、みんなで「しー」と、口に人差し指を当てる。上野さんはもう、補聴器をつけないことにしたそうだ。

 ヒトミさんは、まだマシだというチーズケーキと紅茶を頼み、やがて運ばれてきた小さなチーズケーキに心の中でロウソクを立てる。そして、この幸せがいつまでも続きますようにと願い事をしてから吹き消した。

「ケーキはどお?」
 上野さんに大声で聞かれ、「まあまあです」とヒトミさんが大声で答えると、みんながまた「しー」と言って笑う。

 片山さんがバッグから折り紙を取り出して、「前に教えてくれたハスの折り方がわからなくなったのよ」とヒトミさんに教えを乞う。
 斎藤さんの奥さんが、知り合いの息子さんが奥さんを亡くして再婚したがっていると、極秘情報を伝えるようにヒトミさんに囁く。

 ガタゴトと喫茶店のドアが開き、車椅子に乗った安野さんが入って来る。
「よかったあ、間に合った」
 娘さんに車椅子を押してもらいながら、安野さんは嬉しそうにヒトミさんの横で、車椅子のブレーキをかける。

「いつも母がお世話になっています」と言う娘さんに、「いえいえ、お世話になっているのは私の方です」とヒトミさんはお礼を言う。
「いえ、母から聞いています。時々図書館で、母のために本を借りて来てくださっているそうで、本当にありがとうございます」
「いえいえ、自分のを借りるついでなんですよ、ただのお節介なんですよ」 
 ヒトミさんは小さな嘘をつく。
 するといつも無口な斎藤さんのご主人が、「お節介万歳!」と言い、みんなが面白がって万歳をする。

 それからみんなが、ヒトミさんの掃除が丁寧で素晴らしいと褒めてくれるので、何だかヒトミさんはむずむずするが、今日は年に一度の誕生日だから、素直に賞賛を受けようと、終始笑顔で好意を受ける。

「いつ復帰するの?」
 山井さんが聞く。
 ヒトミさんはまだ何も決めていなかったけれど、年内に離婚は成立するだろうし、ホームに復職することは勿論、九州へ帰るのもいいし、奈良で暮らすことだって出来るかもしれないと思っていた。

 まだ完全な心身状態ではないかもしれないが、永遠に続くかと思われた心の穴の広がりは、これ以上の浸食を免れたことは間違いなく、自分に選択の余地がたくさんあることに気づき、自由であることの喜びが、不意にヒトミさんの内に充満した。

「あなたはまだ若いから羨ましいわあ」
 八十八歳の上野さんにそう言われ、五十三歳になったばかりのヒトミさんはゆっくりと微笑む。
 冷めゆく紅茶の残り香を味わいながら窓の外を眺めると、飛行機が三機次々と、薄青の空を横切ってゆくのが見えた。空の下の秋の海は、ゆらゆらと銀色に輝いていた。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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