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一人の夜を乗り越える力が、私の「成長力」なのかな、と思う話

とても辛いニュースが入ってきた。たぶんお茶の間では、いろんな方向へ悲しみのワードが飛び交っていることだろう。

とある著名人の訃報から、私は一度も、リビングに行ってない。

耳がとてつもなく敏感なHSP気質の私は、こんな悲しみのニュースで世の中が満たされるとき、

音声のニュースから離れるべきと思ったのだ。

テレビを見なくとも…端末にニュースは届くわけで、まあ、ネットを覗いてもそればかり。

どこかしらに名前だったり、写真だったりがある、…悲しい。

そしてこの悲しさは、日を増すごとに募っていくタイプだと思う…

いつも見ていたバラエティの放送時間が近づくにつれ、今週のニュースまとめを見るときに今日を思い出し、そして、いつかあるかもしれない追悼番組を見るときに…想って、悲しくなるのだ。

だって…絶対、打ち勝ってきてくれるものだと、信じて疑わなかったよね。
だってあんなにアクティブな方だったし。
嘘であってほしいと、今でも願ってしまうもの。
…まあ、もう、逃れようのない、事実なのだけど。

一報を知ってから、そんなわけで、現代社会に溢れかえる感情の波に自分の心が浸食されないように、

自分の世界に入って、必要以上に傷つかないように過ごそうと、

訃報が出た夜の今、この記事を書いている。

耳には、落ち着く声を流して、PCとオレンジの小さな豆電球と端末のディスプレイの光だけがかすかに感じられる部屋で、ただ、湧いてくる言葉にあわせて、指を動かしている。

このタイプの悲しみは、ちょっとずつ、ちょっとずつ、好きという気持ちを抱いている、私の感情を削っていくのだろうな、

となんとなく経験上、考えた。

多分しばらくはなんとなく、尾を引く。

そんな人が、今の日本国内には多いんじゃないかと思う。

…きっと、エンタメの面白さをこの人から教わってたな、なんて思いにたどり着いた人たち、多いよね。
私達世代や、私の親世代にあたる年配の人達は特に、そうなんじゃないかな。
触れてきた期間が少ない若い子だって、きっと素敵な面白いおじいさん、の印象は受け継がれていると思うよ。
往年のネタは、いまでも各所で聞かれるしね。それだけ…偉大な人だったんだ。

で、ここからは、私の話。

私は、自分の中に湧く悲しみを人と共有することが本当に苦手だ。

正確には、自分の中に湧いた感情を自覚して、その感情に人を巻き込まないで伝えることが、苦手だ。

昔は悲しい気持ちを爆発させていたが、それが逆に自分に対するダメージになることに少し前に気づいた。

だから、基本、笑って話せるようになるまでは、声にのせて、自分の悲しみを話すのはしないようにしている。

この毎日どうしようもない生活スタイルで社会的には瀕死の現状も、家族以外は知らない。

繋がっていた大切な友人の誰にも私からは話していない。だから、名義を伏せて、このnoteを更新している。

家族には、このnoteに話しているような思いなどは、…多分、私が「私」でいる限り、伝えることはない。

多分、感情の処理、できなくなる気がするから。

溢れさした感情で傷つくのは、きっと私自身だから。

…両親に悲しみはかつては、伝えてた。溢れだした強すぎる感情で爆発して勢いのまま伝えたこともある。

でも、その結果、深手を負ったのは、残念ながら、多分、私の方だった。

自分が傷ついて弱り、人が傷ついて、弱る。

結局、…被害を訴えれば訴えるほど、傷つくということだけ、そのときに学んだ。

爆発して抑えが効かなくなったとき、黙って耐えて受け止めてくれたのは、大切な友人たちだった。

…一緒に苦しむのなんて、すごくパワーがいることだろうに…文句も言わず、安易な同意もせず、ただ、溢れだす感情をその人たちなりに受け止めてくれた。

私が親に求めていたことをくれたのは、…圧倒的に、友人、知人達だった。

受け止められる、と思って受け止めてくれた人もいれば、ぶつけられたから、その場では受け止めざるを得なかった人もおそらくいる。

…そう、考えると、もう、私は、音声で感情を吐き出すことは、自分を楽にするようで、実は自分を傷つけるだけなのだと、今更ながら、気づいてしまった。

もう、これ以下は考えられないだろう、というところまで一度私の生命力が落ちたときに、私は…もう、どんな状態でさえ、生きなくてはならないんだ、と自覚してしまった。

落ちていった時のことや、時に溢れだす感情に容易に溺れ、そのたびに抜け出すのに時間がかかること、できることから試行錯誤を繰り返しているこれまでのことを、安易に音声で伝えるべきではないと思い、黙ることにした。

時が来たら、そのときは、親族以外には、このnoteを読んでもらおう、…そう思っている。

ただ、過去の話だから、重くは受け止めないでくれ、と忠告した上で。

文章の中に宿る「私」は過去の姿でしかないから。…伝えるときの私とは、似て非なるもの、だから。

そんなわけで、湧き上がった複雑すぎる感情のあれこれは、誰にも音声として、リアルタイムに浴びせるのはしてはならないことだ、と思っている。

それをすれば、善意による優しさで助けようとしてくれる人達を、私は確実に、何らかの方法で傷つけて、その事実に傷ついてしまう。

あ、一部例外的に、ぶつけられることに耐えてくれる人には、いつか、勇気を出して、伝えるかもしれない。

…がその後きっと私はとてつもなく弱るだろうな…と思っていたりする。

回復まで気長に付き合ってくれる人でないと、きっと、難しいだろうな…いや、むしろ、話せる時が来るまでに、あのときに湧き上がった強すぎる感情は忘れてしまっているかもしれない。

…いや、忘れてしまってたほうが、幸せかもしれない。

強すぎる感情は、身を、心を滅ぼす。

私の「成長力」は人に見られないところなら、どんな感情に苛まれようと最終的には頑張れることに、ある気がする

私は一人の夜を、あえて作る。

その一人の夜を、味わいきって、次の浮上のスイッチが入るまでは、ただただ感情の波に耐える。

私は見た目よりも、残念なことに圧倒的に感覚の部分で脆弱すぎるから、

受けとめきれない感情に晒されないように、自衛しなければならないのだ。

まあ、それをブチ破ってくる厄介な音や刺激も存在するのだけど、それに反応しないために、私は、やりすごす。

反応すれば間違いなく、傷つけて、その傷つけた事実に傷つくことになる。

どうしようもなく苦しいとき、ヤケを起こさず、

いかに冷静になるために立ち止まれるか、

どんなに苦しくても、

時間と感情の波に流されず、
ただ、自分ととことん向き合う。

特に、私の場合は、…としか言えないのだが。


今のコロナショックで、不要不急の外出の自粛を迫られ、

物理的に人と距離をとることを求められている今、

必要なときには一人になれるかなれないかが、

このコロナショックを経験した後の世界で、生きていく人として、成長できるかにどうかに、関わってくるのかもしれないな、なんて漠然と考えたりした。


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