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3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.22 番外編:オヤジのハサミ

 小学校に入学すると共に、水泳の授業で髪が長いと大変だから、と背中まであった髪をばっさり切ってショートにした。
 それ以来ずっと髪は短い。
 三つ子ということもあり、色々とお金が掛かるため、小学5年生のときから、未経験ではあったが、父が三つ子の髪を切ってくれるようになった。

――バリカンで。

 頭の形に沿って切られた、いや、刈られた残骸たちを、小学生の私はキャッキャッと楽しそうに眺めながら、肌着とパンツ姿で、父にバリカンで髪を刈ってもらった。男子と同じくらい短かったが、三つ子以外の学校中のどの女子にも自分と同じような髪型がいないことが、何より嬉しかった。

 中学校に上がってもそれは変わることはなかった。髪が伸びたら、父にバリカンで刈ってもらっていた。
 周りの女子はかなり驚いていた。思春期ということもあり、お父さん嫌いが多かったから。私と父の月1のこの月課が有り得ないことだという。

 父を嫌いになることはなかった。
 みんなの言う「とてもいいお父さん」だったからというわけでもない。

 昔から無口な父だった。自分から話そうとしない。ただ、何処かに遊びに行くと、父も私たちと同じように、はしゃぎ楽しんでは傷を作って、一緒に帰る。迎える母が父の傷を見ては、呆れていた。
 遊びに連れていくのも、遊んでくれるのもいつも気まぐれ。

 でも、そんな父が大好きだった。

 ある月1の散髪。中学時代、バスケ部に所属していた私は大会の気合入れだと父に髪を切ってくれるように頼んだ。父は「いいよ」と真顔で答えるだけ。
 バリカンのモーター音と頭に沿って刈られていく髪の音が耳に心地よく届く。

「明日、顧問がスタメンで出してくれるって」
「そうか」
「最近は先輩達に交ざって一緒にプレーしてるんだよ」
「そうか」
「ねぇ、お父さん」
「ちょっと下を向け」
「はい・・・」

 男子バスケ部よりも短い髪の毛。どんなに激しく動いても、なびくことも、ふわりと重力に逆らうこともない髪の毛。
 思春期真っ只中で、自分の髪型が気になって練習中に髪をいじるメンバーを顧問が叱るときは、決まって「三つ子と同じ髪型にしてこい!」と言うのであった。
 身長が高いわけでも、体力が人並みにあるわけでも、目を引くほど上手いわけでもなかったが、自分にできることを各々が伸ばしては、必死でボールを操った。
 大きな試合も練習試合も、父は頼りなく動く3人をいつも保護者席から黙々と見守っていた。

 中学3年生になって、部活を引退しても、髪は父に短く刈ってもらった。
 高校入学式の前日も、三つ子も父もいつにも増して気合が入っており、いつもよりも短く髪を刈ってもらった。
 入学式当日、高校が3人共同じこともあって、同じ顔が3人、しかも、髪が二度見するほど短いと、周りが少しどよめき、式終了後、同級生、先輩、先生かかわらず、声を掛けられ、まるで有名人にでもなった気分であったのを今でも覚えている。

 しかし、高校1年生になって数ヵ月後、私はバリカンから卒業した。

「高校生なんだから美容室に行け」

 そう言ったのは母だった。「金が掛かるから嫌だ」と反抗するも「お父さんが疲れるでしょ」と返されると何も言えなくなる。

 父は顔に出さないだけで、本当は今まで私の髪を切ることが面倒だったのかもしない。
 そう思うと、胸がズキリと痛んだ。

 美容室で髪を切るのが面倒で、少しだけ髪を伸ばすようになった。伸ばすと言っても、一般的なショートの長さまでだ。
 だが、元々クセ毛で伸びたらボサボサになる頭だったこともあり、伸ばしていい、と言われるわけもなく。
 とうとう、口を出したのは、父だった。

「俺が切るからウッドデッキに出ろ」

 中学の頃のように、散髪場所だったウッドデッキに出て、父を待つ。懐かしいバリカンのモーター音が聞こえた。だが、いつまで経っても髪が切れる音はしない。

「髪が長すぎて、バリカンの刃が喰わん」

 父は溜息を吐きながら、バリカンの電源を切った。
 バリカンを持ったまま、一度部屋へ戻り、もう一度ウッドデッキへ出た父の手には、梳き鋏が握られていた。
 父の梳き鋏デビューだった。
 そして、これがきっかけで、私もまた高校生にして父に、今度はバリカンに代わって梳き鋏で髪を切ってもらうようになった。

 高校2年生の秋。大学進学を見据えた時期。私は県外の大学を目指していた。それを父も母も反対することはなかった。

 またいつものように、ウッドデッキで髪を切ってもらう。

「お父さん」
「何?」
「あと、何回、お父さんに切ってもらえるかなあ、髪」
「・・・・・・卒業するまでじゃないか?」

 その時の父の顔は見えなかったが、その声はなんだか寂しそうだった気もした。いつもの変わらぬ顔で、そう言ったのかもしれない。

 高校3年生の春。私はいかに一人で生活する中で金を使わないか、というのを考えるにあたり、セルフカットを習得しようと考えた。
 つまり、もう父の手は借りず、自分で全部カットしようと試みたのだ。
 大事な一回目。前髪は自分で切ったことはあったが、後ろとなるとなかなか上手くいかず、風呂場に一時間以上居座り、ようやく切れた。
 母は「上手く切れたじゃない」と褒めてくれたが、父は首を傾げて「髪が重い」と言った。
 正直、褒めてくれてもいいのに、と両頬を膨らませた。

 めげずにセルフカットに挑んでいたある日、仕事から帰ってきた父が、何やら嬉しそうに、私にドラッグストアの買い物袋をチラつかせた。私に一度目をやり、袋から新しい梳き鋏を取り出してみせた。

「じゃーん」

 あまり表情を変えない父が笑って私に見せた。

「これで、お前の髪を切ってやる」

 これが、私と父のスキンシップ。コミュニケーション。
 県外へ進学する私は父といれるのも、もうあと一年ない。

 梳き鋏のジョキジョキと髪が切られる音を聞きながら、私は口を開く。

「お父さん」
「何?」
「8年目となると、やっぱりカットも上手くなりますな」
「そりゃな」
「───卒業するまでよろしくね」
「・・・・・・いいよ」

 いつもと変わらぬ調子で抑揚なく答える父。私は「あとちょっとかぁ」と笑いながら、遠くない寂しさを吹き飛ばした。

 大学進学後、父に切ってもらうことはやはりなく、大学生1年目は、少しの間頑張っていたセルフカットに挑んでいた。
 大学生2年目は縁あって、カットモデルをした美容室にお世話になった。
 やはりプロは違うと、綺麗に整えてもらった髪を見て笑みを零すも、バリカンのモーター音を聞くたび、梳き鋏のジョキジョキという心地よい音を聞くたび、無愛想で真剣な顔で切る父の姿を思い出す。

 今度、地元に帰ったときは、父に「カットチャレンジ」だなんてふざけて、髪を切ってもらおうか。

 また、あのときみたいに。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります:)