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三つ子じゃない「私」で表現する

私は、一卵性三つ子として生まれた。
一つの受精卵が細胞分裂したんだ、そりゃ、顔も背も体重もなんだって似る。
姉妹でもなく友達でもない、それぞれが自我を持った「分身」という感覚で接することが日常だった。

これは、私が三つ子の一人ではなく、「私」として創作活動を確立し始めるまでの記憶の記録である。


三つ子の私

「三つ子ちゃん、初めて見た~!」とともに生きてきた。

小さな頃は遊園地で出会った知らないお姉さんにナンパされて、親の見守りのもと、なぜか知らないお姉さんと三つ子でコーヒーカップに乗ってくるくる回ったこともあった。

近所のスーパーの前で炭火の焼き鳥を売ってたおじさんと仲良くなって、三つ子で揃っていくと、蓋、ほぼしまってないやんっていうくらいに焼き鳥を出血大サービスしてくれたこともあった。

たまたま志望校が一致し、無事全員志望校に入学した高校の初日から「三つ子だ三つ子!」と知らない先輩や先生に話しかけられ、一種の有名人になったこともあったし、全員演劇部に所属したこともあり、分身する忍者役をして60分間中数分の出オチを担い、笑いを誘ったこともあった。

大学時代は全員県外離れ離れになったが、三人揃えば人が集まったし、ボツにはなったが某番組の担当から「彼氏は三つ子で彼女が入れ替わっていても気づく?気づかない?」のオファーがきたこともあった。

社会人になると、たまたま会社に訪れた新聞記者が「転職されました?」と別の片割れと勘違いして話したことをきっかけに地元の新聞の記事に取り上げられたこともあった。

このように、みんなが笑顔で話してくれたし、三つ子だから目立ってきたこともあるし、得してきたところもある。

でも、私は「三つ子」として生きてきたのだ。
私個人は見られずに、三つ子という要素に過ぎず、家を出れば、いつも「三つ子」という存在で生きてきた。

生まれたときから高校まで一緒。
クラスは離れたものの、マンモス校でもなかったから、名前を知らない先輩後輩からも「三つ子」と呼ばれた。

三つ子である自分は好きだった。
二人がいなくても、よく「私、三つ子なんです」と言っていた。

でも、「三つ子」ということに靄が徐々にそして色濃くかかり始める。
その一つの要因が「創作」だったように思う。

モノづくりと三つ子

物心ついた頃から、作ることが好きだった。
私は小説を書くのが好きだった。きっかけは、二号(次女だが名前を伏せるときは決まって二号と呼んでいる)が書いていていいなって思ったことだ。
誰に見せるわけでもなく書いていて、三つ子三人とも小説を書いていた頃は読み合いっこをして楽しんでいた記憶がある。

それから、高校になると二人は美術の道へ歩み始めた。

ここから靄が色濃く出始める。

二人は美術科へ進学し、私は同じ高校の普通科へ進学した。
すると、言われるのだ。

「あなたは芸術系じゃないんだ」
「美術科じゃないんだ」
「美術科じゃなくとも音楽科(母校には普通科・美術科・音楽科があった)じゃないんだ」

別に美術の道で食べていこうと思ってないし。
そう思っていたが、靄は取れなかった。

二人は優秀で、よく全校朝会で授賞式があると名前を呼ばれて登壇していた。実家には二人の盾がいくつもある。
純粋に誇らしかったはずなのに。

「二人凄いね」

嫌味ではないことは分かっている。けど、同級生や親戚から言われるその言葉が焦燥感に代わり、次第に大きな劣等感へと膨らませた。

二人がキラキラ輝いて見えた。
私も「書く」ことであの場に上がれたらな。
そんなことを夢見ていた。

演劇部では脚本を書きたいゆえに入部したこともあって、一年の頃から脚本を書き続けていた。
自分の脚本で上演することも多かったが、大きな賞を取ったり、脚本賞を取ることはなかった。

入試の頃から気にかけてくれていた学年主任が誘ってくれた文学コンクールも結果は振るわなかった。

そんな中、演劇部で学内公演をしたときだ。
脚本を三号(=三女)が担当した。
その脚本での舞台は、笑い声とすすり泣く声が客席から聞こえてきた。

上演中、楽しかった。感想を聞くのも嬉しかった。
けど、物語を書くことを自分のアイデンティティだと思い始めていた自分にとっては、聞けば聞くほど焦りになって、当時増幅していた劣等感を爆発的に成長させてしまった。

そのときからだっただろうか。
二人の書いた物語を読めなくなった。

読めば嫉妬するからだ。
自分のアイデンティティを奪われた気になるからだ。
惨めな気持ちになるからだ。

今思えば、そんなことないのにと思えるのだが、当時、多感な高校生。絶望のどん底にいる気分だった。

二人と違う道を歩いても劣等感。
同じ道を歩いても劣等感。

もう、救いようがないほど落ち込んでいたし、二人を敵視していた。
とんでもない拗らせ女子高生が爆誕していた。

しかし、前述したように「今思えば、そんなこともないのにと思える」のだ。そう思えたきっかけは、拗らせ高校時代の終盤、高校三年の受験勉強期だった。

手を離す三つ子

私は、心理学を専攻しつつ、その地域に住みながらまちづくりを学びたいと高知県の大学に進学した。入学当初は友達作りが苦手だったので、一人、小説の執筆に勤しんでいた。

しかし、高校三年生受験期真っただ中の9月までは、なんと芸術系の大学を志望し、金属工芸の道に進もうとしていた。

きっと、拗らせと自己防衛もあって同じ美術の道でいて、二人とは違う専攻に行こうとしていたんじゃないかと思う。

そんなときに、当時、二人の担任であり、私のデッサン指導をしてくれていた先生から言われたのだ。

「一度、手を離してみなさい」

三つ子で内側を向いて手を繋いでいるから、三つ子の中しか見えない。外にあるものは見えにくい、興味を持っても両手が塞がっているから掴めない。だから、一度手を離す。いつでも手は繋げる。また手を繋いだときはそれこそとんでもない力だ。

そんな風に先生は私の目を真っ直ぐ見て言ったのだ。

先生は、私の内面を直接指摘はしなくとも、全部お見通しだったのかもしれない。

金属工芸が全く行きたくなかったわけではないが、もう一度自分と向き合って、心理学とまちづくりを学ぶ道を選んだ。

二人からの劣等感が軽くなり始めた瞬間だ。

自分探しの大学時代

自分の道を歩み始めた大学時代。
三つ子三人ともが自分が叶えたい夢に向かって、県外の大学に進学。一人は京都、一人は岡山、一人は高知。みんなバラバラになった。

しかし、進学するまでは「三つ子」という要素が私のアイデンティティの大半を占めていて、周りもそれを色濃く認識していた。

初めて、物理的に離れた瞬間。
誰も私のことを知らない。私を三つ子だとも知らない。
初めましてが「三つ子」から始まらない環境下。

そこで沸き上がる「私って?」という不安。
離れ離れになった環境下では、三つ子というアイデンティティの他者認識はずいぶんと薄れていた。

物理的にも一人になって、「私」として認識されるようになって、今まで、名前を知らなくても呼び止めてくれるくらいには注目されていたその要因が、本当に「三つ子」だけだったんだと痛感した。
三つ子として立ち振る舞っていない私は、人ごみの中に紛れている一部に過ぎない。
「自分」というものがない。平凡、平均に埋もれる恐怖を感じた。

しかし、その恐怖は幸運にも、どん底まで落ちるエネルギーとしてではなく、ひたすらな自分探しの旅の原動力となった。

大学の4年間、「私」を確立するために、堂々と言えるくらいには自分と向き合った。その時間が「私」として立てるようにしてくれた。

三つ子の中の「私」ではなく、「私」の中に三つ子がある。
自他ともにその認識が広がってきた。

これで社会人になってからも私は私なんだ。
そう意気込んでいたが、想像以上に「私」は脆いことを知ることになる。

三つ子と「私」再び

大学を卒業し、地元鹿児島へ帰郷。
最初の一年は、社会人として慣れる一年で終わりそうだなと思っていた矢先、「三つ子で出展しませんか」と声をかけられた。

鹿児島のデザインとクラフトのイベントash。
県内のお店やギャラリーがクリエイターの作品を展示したり、WSを開催したりする。
存在は知っていたが、見る側としてイベントに参加したこともなかった。

――のに、「うちで、クリエイターとして出展しませんか」と声がかかったのだ。
というのも、「三つ子」以外の自身のアイデンティティを確立するのもだいぶ落ち着いてきたころ、大学在学中に「せっかく三つ子なんだから」とものづくりが好きな私たちは三つ子クリエイターユニット3FacEとして細々と活動しはじめていたのだ。

周りの認識からすると、「何をしてるかは詳しくは知らないが、何かしら創作活動をしている三つ子」という感じだ。

社会人。
生きるために職についても、創作活動は積極的にしていきたかった三人。
「やります」以外の返事はなかった。

しかし、どうにか形にすることばかりに私は気を取られて、自分の創作の軸が迷子になってしまった。

3FacEのコンセプトはモノがたり×モノづくり。物語があって、絵や木彫などの作品が初めて生まれる。

物語を自分の軸にしたいことは分かっていたのに、作り出したのは、手書き文字のパネルとハンドメイドのアクセサリー。物語を担当したのは、二号だった。

別に、それも自分の創作活動の一つであることに変わりはなかった。
しかし、主軸に置きたいものでないことは明らかだった。

だから、私が物語を書いていることを知っている人は「毬花さんが書いたんじゃないんだね」と驚いた。

情けない。

しかも、作品そのものよりも、三つ子珍しさが圧倒的に勝ってしまった。
三つ子であることを活かそうとしたら、三つ子というものに飲み込まれてしまった。
味方が実は敵だったみたいな展開である。

このイベントは、私にとって悔しい思い出になる。
しかし、一年後、もう一度チャンスが来る。
同じイベントだ。

「私」再始動

あっという間に、悔しい思い出となったイベントから一年が経ち、前回のイベントをきっかけに「うちで出展しませんか?」とお声がけいただいていたところと再び出展を決意。

苦い思い出として残っていたのでめちゃくちゃ悩んでいたのだが、憧れの方から「三人でやった方がいい」と言われ、エントリーした。ちょろい人間である。

しかし、同じ思いは繰り返したくない。
私は二人に一つ我儘を言った。

「私に物語を書かせてくれ」

誰が書いてもいいじゃないかと思うだろう。
しかし、3FacEでの創作活動を本始動するにあたり、「旅人さん」という一つの物語の設定が確立されていたのだ。
そして、その設定の本家は私ではなく二号だった。

本家ではなく、私に書かせろ。
つまり、二次創作を本家名義並みにさせろ。
そういうお願いだった。

二号が考えた設定を、築いてきた物語を、これからは私に書かせてくれ。
謂わば著者権譲渡である。

しかし、二人は三人で作った設定と物語だからと「いいよ」と一言返事で了承してくれた。

物語を軸にしたい私にとっては、ビッグチャンスだった。
しかし、書くのは容易ではなかった。
物語がなければ二人の創作活動はやりにくいというのに、ぎりぎりまで書いていた。

怒られた。それでも、お前には任せないとは二人は判断しなかった。
本当に感謝してもしきれない。

搬入日の午前中に物語を収録した紙書籍が納品。本当にぎりぎりだった。

展示は無事にできた。
書籍という形となった物語と木彫とイラストと。

知名度がないながらも、イベント期間中の16日間で約50冊売れ、自分が働いている会社の運営店舗2店舗で販売も決まった。

本当にドタバタであったが、不格好なりにもスタートラインに立てた気がする。

ある夜の告白

イベント初日の夜に開催されたオープニングパーティーに三つ子で参加した後の帰り際のことだ。

その頃仕事の関係で、二人とはやや遠くに住んでいた私は、名残惜しさに帰路に就こうとしていた二号を呼び止め、夜遅くまでしている喫茶店へ入った。

嫉妬で全然読めていなかったけど、やっぱり二号が書く世界観や物語が好きなこと、二人に今でも嫉妬心があること、自分の物語との向き合い方や自分の物語そのものに不安があること。

笑いもしながら、泣きもしながら。

今まで直接言えなかったことをぽろりぽろりと話した。
二号はただ「私はそんなことなんかつゆ知らず」と優しくただ聞いてくれた。

抱えていたものがすとんと落ちた。

姉妹だからってなんでも気軽に話せるものじゃない。
でも、勇気を出して話すとこんなにも靄が晴れて空いた部分が温かくなるなんて初めての心地だった。

弱いところを自分の口から出して、やっと、自分と向き合えた気がする。

そして、この夜言われた二号の言葉が忘れられない。

「もし、毬花が私と同じように木を扱う道にいたら、毬花が物語を書くので悩んだように私も悩んだり嫉妬していたかもしれない」

三つ子の中でも自分の芯をしっかり持っていて揺らがないと思っていた二号が言ったからこそ、その言葉は大きかった。

嫉妬というのは、自分が手を伸ばせば届くと思う存在に対して喚起されるらしい。

三つ子というのは、距離が近い。
同じDNAを持つ人間。何をするにも自分にもできる可能性があると思ってしまう。
だから、嫉妬が生まれやすい。
闘争心強めで人と比較しないと自分の価値を確立できなかった昔の私はなおさらだなあと嫉妬のメカニズムを知ったときに思ったのをよく覚えている。

それは、私だけじゃなくて、もしかしたら言わなかっただけで二人もそうだったのかもしれない。私ほど強い嫉妬心が生まれなくとも、ちょっとだけでも。

それを感じられて、なんだか安心した。
私にとって二人は前を行く人だと思っていたから、無意識にほしかった見た目以外の共通点が増えた気がして、ちょっと嬉しかった。

ああ、絆ってこうやって深くなるかもしれない。

そんなことを思った夜だった。

おわりに

二人も「物語」を大切にする創作活動をしている。

しかし、だからといって、私が持っている「物語を書く」というアイデンティティが奪われるわけでも価値が下がるわけでもない。

これまでのもがき苦しんだ創作活動を通してそれに気づけたことは、これからの人生にとって大きい。

目を背けていた弱さと対峙し認め、愛することができた今、三つ子で手を握るだけじゃないつながり方を知れたこれからは、より、「私」として、「屈橋毬花」をかたち作っていけると思う。

三つ子での創作活動も「私」一人の創作活動も、これからも大切に、死ぬまでいろんな形で物語を書いていきたい。

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