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「静寂に関するいくつかのこと」


1.

インターネットの青い文字。

私はなぜだか眠れない夜に、ニューヨークに住むエジプト人登山家の個人的なインタビューを読んでいた。エベレストに登ったことのあるその人が、今までで一番苦しかった時のことを聞かれて、娘の出産時に奥さんを亡くしたことだと答えていた。

ことば。
愛情が、とまどいが、ひしひしと伝わる言葉遣いだった。

ICUに横たわるもう動かないひとを前に、医師や看護師は彼を残して退室していった。Take your time as much as you need.
彼は、彼女の手の写真と、足の写真、それから一房の髪の毛を切り取って、何も言わずにICUを出たという。自分が空になったような気持ちだった―——と。

私は夜中の頭で少し泣いた。
静寂が目に浮かんだからだ。
言葉を失った人と、無機質に響くシャッター音。

かなしみは静かだ。


2.

人生で一番深く心に刻印された瞬間は、ときかれたら、あの年の6月と答える。日付は忘れてしまった。
この時の記憶に音はない。
まるで自分というもののほとんどが、のばしていた手足をしゅるしゅると巻き戻して、肺のあたりに収納されてしまったかのような窮屈さだった。
ずんと重くなった胸の苦しさに、もうこれ以上どこにも行けない気がした。
駅のホームには初夏のぬるい風が吹いていた。あの日着ていた服がどのように肩のあたりに感触を残すか憶えているような気もするのだが、もしかしたら単にあの頃よく着ていた服の記憶をくっつけているだけかもしれない。

ごうごうと空気を圧迫しながら電車が何本も過ぎて行った。
その瞬間の空気のふるえと、圧倒的な存在感だけが心を落ち着かせた。

もうどこにも行けなかった。どうやって日常に戻ればいいのかわからなかった。どんな顔で日常に戻れるのかわからなかった。一歩さえ踏み出せばぐちゃりと自分をかき消してくれるはずの電車だけが優しくいとおしく感じたのだ。私は死んでしまいたかった。心は何も言わない。そのことが私を戸惑わせた。どういう気持ちになればいいのかわからずに、胸の重さだけがずんずんと存在を主張して、それでも心は空白だった。むっつりとだまりこんだくもり空———————



3.

戸をあけてするりとすべりこむ。
戸すらも自分をはるかに凌ぐ高さのものである。戸が大きいと、人はちぐはぐな印象を得てしまうのかもしれない。巨人の家に、留守の間に忍び込んだような気持ち。

見上げると内部の天井はどこまでもすらりとのびていた。
それから、柱。天井の鋭いアーチを受ける柱は、人のスケールを超えた太さで、しっかりと根を張っている。

わたし、小人みたい。

神さまは存在するんだ、と言われたら、素直に「きっとそうだろう」と思ってしまいそうな空間だった。
教会。ブリュッセルの大聖堂である。

面白い。

それからことあるごとに教会にすべりこんだ。
いつだってそこは静謐な空間が広がっている。静かで、音が響く。
あれはどこだったか、ネロが死んでしまう舞台となる教会で、懺悔の小部屋と、外で自分の順番を待つ若者を見た。彼は椅子に座って、思い詰めた目で正面を向いていた。小さな椅子、肘を膝の上に落とし、口元と両手が近かった。
午後の日差しが美しく差す教会で——教会は全て、美しく日光が差すように造られている——、彼は救いの瞬間を待っていた。



4.雪
自然は何も言わない。



5.

特別柔らかい席に沈み込んで暗闇の中で光を追う行為は、まるで希望かなにかのようだ。

夜のバンコクで、フランス映画祭の一環として上映された恋愛映画は、カップルが出産を経て子供を持つことで、意図せずとも変化していってしまうストーリーだった。やけにリアルな出産シーンはすこし怖くて薄目開きで見たのだが、へその緒を切るはさみからこぼれる丸い血液が鮮やかだったのを憶えている。

幸せなはずの日々は、少しずつ歯車が狂ってしまう。そうして、一度距離を置かなければならない所まで来てしまった二人は、ばらばらに暮らし始める。子供を抱えて実家に戻ったヒロインは、育児と仕事の忙しい日々を送るが、どんなタイミングだったか、ふと涙をこぼす。静かに、静かに、音もなく。いや、泣き声は音楽でかき消されてしまうのだ。きれいなピアノの旋律にのせて、女性シンガーがそっと歌う。Lonely, you are so alone.


Imagining the landscape of your sorrow
Is it yellow or blue?

胸が詰まった。
一度知ってしまった幸福を、手放さざるを得なくなった人の戸惑い。
悲しみ。
孤独。

わたしは、とても、とても悲しかった。映画はハッピーエンドで終わったが、私は取り残されたままだった。Lonely,とうたったその曲の名前を帰ってすぐに調べ、iPodに入れるのに15分とかからなかった。

ピアノの旋律、囁くような歌声。

悲しみは静かだ。悲しみに沈むひとは沈黙する。復活を祈る気持ちを抱いて、最後の審判を待つ死者のように眠る。

いつか生命が再び芽吹き、幸福に出会えるその日まで。暗闇の中で目だけが光を追う行為は、まるで希望かなにかのようだ。




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