小説『ノルウェイの森』を読んで③


今回は、’’支援’’がテーマです。

外部世界へ出ていく不安とともに、どういうふうな支援をしてもらえると嬉しいのかを書いています。自分の経験に基づいているため、かなり私自身の話が多くなってしまいましたが、1つの例としてみてください。😌

また、当事者に対してどういうふうに接すればいいのか悩んでいる方にもおすすめです。

これを公開するのに勇気がいりましたが、いつまでも抱えているわけにはいかないので、ええいっ!と公開しちゃいます。

●外部世界へ出ていく不安


まず直子が前回の手紙の続きで、当事者同士の関わり合い方について説明しています。

「ここ(施設)にいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮しています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。」


たしかに、Twitterの闘病仲間とはこのように関わり合っている実感があります。歪みを前提とした人々が集まり、傷つけあうことのないようにそっと暮らしていて、通院できたことを報告したり、褒めあったり、ささやかな幸せを願ったり、願われたり。歪みを抱える者同士、そっと生きています。

でもそれじゃあ、歪みを意識している人があまり多くないという外部世界に出ていくことは不可能なのでしょうか?

直子も同様の心配をしています。

「この施設の問題点は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなるということですね。私たちはこの中にいる限り平和で穏やかな気持になります。自分たちの歪みに対しても自然な気持で対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果して私たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が持てないのです。」


わたしも不安を抱えていて、復学して、この先いずれは働くことになって、外部世界に出ていけるのだろうかと不安です。
それでも、わたしをそばで支えてくれて、わたしと外部世界を繋いでくれる人、直子から見た「僕」のような存在が、わたしにもいて、彼に手を繋いでもらいながら、少しずつ外部世界に出ていけたら。
そしてその外部世界がこういうものになれば出ていきやすいなという願いを込めて、以下を書いていきたいと思います。

●助けること、助けてもらっていること


発症した当時、症状がひどくて、自分でも自分の状態がよく分からず、とりあえず実家に帰ったものの、家族も私を理解できなくて、喧嘩して家を出て横浜に1年ほど戻ったことがありました。(結局半年くらい母親と口を聞かなかったな、、)

横浜にぼろぼろな状態で戻ってきた私に、彼は「おかえり」と言って、ずっとそばでいてくれました。もうそれだけで十分なのだけれど、彼なりに、どう私に接すればいいのかわからないような様子で、わたしも自分の言葉で説明出来なかったので、泣きながら玲子さんの言葉を見せました。

「まず第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。と。第二に正直になること。嘘をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」


彼は読んだ後何も言わなかったので、どう理解したのか分からないけれど、なんとなく接し方が変わったように感じました。
それから喧嘩も何度かしましたが、彼は助け合うことと正直でいることをごく自然にしてくれたので、私は安心して彼のそばで休むことができました。私も彼に対してそうするように努めて、今は互いが互いの最大の理解者であるように思います。
私が、「いつも助けてくれてありがとう」というと、「自分も助けられてるよー」と言います。その言葉が、また私を助けてくれるのです。

Twitterの闘病仲間のツイートを見ていると、たまに、的外れな支援をしてしまう人がいるのが見受けられます。
旅行に連れて行ってあげよう。励ましてあげよう。私自身は自己啓発本を送られたこともありました。『助けてあげよう。』
すべて、わたしを思ってやってくれているのは分かります。本来なら感謝すべきことなのかもしれない。でもそしたら、相手の「助けてあげよう」という気持ちを受けて悲しくなった私の気持ちはどこにやればいいのでしょう。

玲子さんは「僕」に言います。

「ここのいちばん良いところはね、みんなが助けあうことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いを助けあおうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげる・・・ の。でもここでは私たちは助けあうのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教えてるし、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能にめぐまれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。患者もスタッフも、そしてあなたもよ。あなただってここにいる間は私達の一員なんだから、私はあなたを助けるし、あなたも私を助けるの」
レイコさんは顔中のしわをやさしく曲げて笑った。



『助けあう』という意識ってあまり浸透していないように感じます。病気や障害、年齢に関係なく、「助けてあげる」のではなく、「助け合っている」。私たちは誰しも歪みを持っているのだから。それを理解することができて初めて、平等な関係が出来てくるんじゃないかなぁと思います。そしてそんな関係を大切な人と築けたらそれはとても幸せなことだと思いました。

最近、面白いツイートを見つけました。
助けあうという意識があまり広まっていない現状の1つだと思います。

「支援者向けに援助要求スキルの研修をした。支援者に『自分はどういう時に人に助けを求めるか』をたずねてみると、自分が誰かを助けるイメージは合っても支援者自身が誰かに助けてもらう場面はイメージしにくいようだった。相手のこまり感をキャッチするアンテナの弱さにも関係する可能性はありそうだ。」@zubattored 阿部利彦さんのツイートより



たしかに、これはあるなぁと実感します。
当事者同士が助けあう傾向がある理由は、経験を通じて、私たちは助け合って生きているんだということを理解しているから。どういうふうに助けられるのがいいか、すなわち自分(相手)がなにに困っているか、どういうふうに接してもらえるとありがたいか、身をもってなんとなくわかっているからです。そこでは的外れの支援も起こりにくいと思います。自分が、相手が、何を本当に望んでいるかをアンテナでキャッチできるから。

では、当事者ではない人が支援をする場合。
誠実な支援をするのは不可能なのでしょうか?
わたしはそんなことはないと思っています。

たしかに経験していないことを理解するのはとても難しいし、この忙しない世界の中で、普通に生活を送っていると、自分が誰かに助けられて生きている、(ましてや病気の人に)と気づくのは少し難しいことかもしれません。

でも、それを補うのが勉強なりこのような本なり映画なりだと感じます。
たとえば、私の大切な友達や先輩は、勉強と知識と想像力で、素晴らしい支援をしてくれて、わたしはそれに助けられ、心からありがとうと思っています。彼らは無意識かもしれないけれど、私を下に見るような気持ちは彼らからは感じません。平等に接してくれているんだなと感じます。私が彼らを助けているのかどうかは分からないけれど😅

私たちは、助けたり、助けられたりしながら生きていて、平等なんですね。

●正直でいること


レイコさんは第二に正直であることを挙げています。

「第二に正直になること。嘘をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを誤魔化したりしないこと。」

当時の私は、人に対する信頼があまりなかったので、100%正直な気持ちしか自分の中に受け入れることができませんでした。
どれだけ繕った言葉でも、慰めや同情やドン引きや可哀想にという気持ちが少しでも見えると、心の耳を塞いで自分の中に閉じこもりました。
そして孤独感を強めていくと同時に、誰か私を救ってよ...という気持ちでいっぱいでした。

そんな気持ちのやり場は主に彼の方へ向かいました。今考えると一方的すぎて本当にひどいなぁと思うのですが、彼に、

「正直でいてくれ...!そしたら私はあなたを100%信じられるから...!(あわよくばその100%正直な気持ちで私を愛してくれ...!そしたら私は救われるから...!)」

って思ってました。
押し付けみたいなお願いですね😓
彼はなぜ私から離れなかったのか不思議に思うくらいです。

でも今考えると、彼は病気になる前も後もずっと正直でいてくれました。ただ私が、症状で信じられなかっただけでした。当時の私は本当に必死で、自分を信じるのはおろか、相手も信じることができず、そうやって相手に正直でいることをお願いして、半強制的に自分の心に相手を信頼させることによって、自分の生にしがみついていました。それで精一杯だったのです。

また物語に戻ります。
「正直でありなさい」という言葉を受けた「僕」と直子とレイコさんの3人が話している最中、直子は気が高ぶって泣いてしまいます。そのあとの「僕」とレイコさんの会話です。

「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」
「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは。だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょ?」


少し回復した今、本当にそう思います。長い時間はかかったけど、正直でいてくれたから、ここまで回復することができたのだと。
「誰かを信頼できる」ことが回復するためには必要で、信頼するためには、互いに正直であることが不可欠なのです。

●可能性について

また、助け合いの精神、つまり平等の精神がないと怖いところは、その人の可能性を奪ってしまうかもしれないところです。要するに、「これはあの人はできないだろうから私がやってあげよう、あるいはやらないであげよう」となりがちで、的外れな支援につながりやすい気がします。

たとえば、私のおばあちゃんは、一人暮らしが厳しくなってきたため、最近は私の実家で主に生活しています。
そこで、母が、「固いから食べられないだろう」と思って出さなかったキュウリの酢の物を、私が知らずに出したら、おばあちゃんは美味しいと言ってバリバリ食べました。
以前は寝たきりで歩くときは介助付き、たまに来た人に話してもらって・・・ 、ご飯もすべてヘルパーさんに作ってもらって・・・ いた、というおばあちゃんが、今は自分ひとりで歩いたり、私の実家で犬の相手をしてくれたり、この前は台所に立って魚を捌いたりしていて、可能性に満ちているなぁと感じました。
この前は私が大好きなインドカレー屋さんに誘ったらついてきてくれて、初めはインド人の店員さんや独特なお店の雰囲気にびっくりしていたものの、ナンとカレーを美味しく頂いて、店員さんに何度も「美味しいです♪」と伝えていました。
78歳、まだまだこれからです!

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少し話はずれましたが、可能性を奪ってしまわないように、やっぱり、私たちは助け合って生きていること、平等であることを再認識する必要があると思います。

そして、助けあうために、可能性を奪ったり奪われたりしないために、正直でいる必要があると思います。
キュウリを食べられなくなったら食べられないと言う、休みたいと思ったら休みたいと言う。正直なコミュニケーションがとれて初めて適切な支援に繋がると思います。日頃から正直でいたいし、大切な人にもそうあってくれると嬉しいなと伝えます。

長々と書いて途中で話もずれましたが、私はまずは身近な人とこんな世界を築きながら、過ごしていけたらなと思います。外に出て新しい出会いがあっても、こういうふうな考え方を共有できる人と仲良くなれたらいいなぁと今のところは思っています。

最後に、大好きな映画
’’THE PENUT BUTTER FALCON''より

「友達は自分で選べる家族だ」!


長い文読んでくださってありがとうございました😊次回は「ノルウェイの森」を読んでシリーズついに最終回!気が向いたらぜひ覗いてみてください♪

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