四天王寺と法隆寺との位置関係
九條です。
先日(2023年7月19日)に放送されたNHKの『歴史探偵』の「聖徳太子 愛されるヒミツ」を録画していたものを先ほどまで観ていました。
7月は何せ忙しかったので観る余裕が無くて、しかし飛鳥文化は私の卒論のテーマでもありましたので録画予約はしておいたわけです。^_^
それで、先ほど観ていて思ったのですが…。
やはり飛鳥時代の交易を考える際には、龍田越のルートは無視できませんね。
龍田越とは、
難波津→(四天王寺門前)→龍田山(龍田越)→斑鳩(法隆寺門前)→飛鳥(豊浦宮・小墾田宮)
という陸路を辿ります。逆も然り。
これは、いまのJR大和路線の「天王寺―王寺」間とほぼ重なるルートですね。
すなわち四天王寺も法隆寺も交通の要衝に立地しているわけですね。
四天王寺が海から摂津国への入口に、または摂津国から海への出口に、そして法隆寺は大和国の出入口に建っているわけです。
政治・経済的に重要な地を当時の権力の象徴であった古代寺院(しかも両者とも皇族である上宮王家の氏寺)がシッカリと押さえているわけですね。
そして大和川水系での水運が整備されるのは、平城遷都の頃で佐保川が整備されて大和川とうまく繋がってからだと思われます。
つまり聖徳太子の時代(飛鳥時代)の遣隋使ではなくて、奈良時代の遣唐使になってから、大和川水系は盛んに水運に利用されるようになります。
そしてこの頃になると、陸路は龍田越よりも奈良街道(暗峠越)のほうが利便性が高く、おもにこちらが主要ルートとなりますね。
平城遷都の際には、飛鳥の寺はみな平城京へ連れて行っていますね。それは水運・陸運のルートが変わったからだというのも理由のひとつだと思われます。
大和川水系の利用はすでに藤原京の時には計画されていたのかも知れませんが、聖徳太子(上宮王家)の時代には、まだ大和川という難所を抱えた水運を利用しなければならない程の物流は量的になかっただろうと思います[1][2]。
歴史を平面的ではなくて「空間的に捉える」ということは大事だなと思いました。^_^
【註】
1)『日本書紀』には遣隋使の小野妹子を送ってきた裴世清一行は、難波津から大和川を遡り海柘榴市にて上陸したと記しているが、おそらく難所の亀の瀬の手前で一旦上陸して龍田山を陸路で越え、再び乗船して海柘榴市に向かったのではないかと推定される。それほどに大和川の亀の瀬は難所であった。
2)四天王寺創建瓦は樟葉・平野山瓦窯で焼成された事が判明している。これは淀川を下って四天王寺まで運ばれたものである。これの同笵瓦は法隆寺若草伽藍の創建時にも用いられているが、この場合は木津川を遡って斑鳩まで運ばれたと考えられている。すなわち大和川は経由していないのである。
【参考資料】
木下正史「古代日本における内陸水運利用の研究」文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書 2006年
©2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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