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吉野ヶ里石棺墓についての一考察

九條です。

このたび吉野ヶ里遺跡で見つかった石棺墓。その墓壙内から弥生土器片が見つかったということですね。その詳しい編年が待たれるところだと思います。

さて、この石棺墓の年代は(おそらく同一時代面から出土した土器群だけではなく考古学的層位学=この遺跡地の基本層序や遺構の覆土などからの推定も伴っていると思われますが)、邪馬台国とほぼ同時期だと言うことですね。

邪馬台国がどこにあったのか、そもそも邪馬台国なるクニが本当に存在していたのかの議論は別として…。ここでは邪馬台国があったと仮定して論を進めてみます。

この吉野ヶ里遺跡の石棺墓が邪馬台国とほぼ同時期だと仮定すると、卑弥呼は3世紀の第2四半期(西暦250年頃)に亡くなったとされていますから、この石棺墓も邪馬台国もその前後には存在していたと考えられます。

いっぽう、古墳の年代のひとつの指標となっている前期古墳である奈良県桜井市の箸墓(箸中山)古墳の築造時期は3世紀の第3〜第4四半期(西暦250〜300年頃)とされています。『日本書紀』によるとこの箸墓(『日本書紀』に記す大市墓)は倭迹迹日百襲姫命やまとととひもとそひめのみことを葬ったとされています。

すなわち吉野ヶ里石棺墓の僅か50年ほど後には箸墓古墳が築造されたと考えることができます。

するとですねぇ…。考古学や歴史学(とくに考古学)においてその間を埋める資料が多すぎるのですよね。

例えば、上述のごとく吉野ヶ里石棺墓の墓壙からは弥生土器が出土したと報道されています[※1]。しかし箸墓古墳からは布留式土器(布留0式土器)すなわち土師器が出土しています。また箸墓古墳からは円筒埴輪の源流となった宮山型特殊器台や都月型円筒埴輪の存在も確認されています。

さて、吉野ヶ里石棺墓から箸墓古墳までの、このたった50年ほどの間にこれだけの大きな飛躍があったと考えて良いのでしょうか?

私は、吉野ヶ里遺跡は一地方(北九州地方)の巨大集落であり、今回見つかった石棺墓も一地方の巨大集落の中の墓であり、いっぽう箸墓古墳はヤマトにあった中央政権による巨大な墓。

遺構を比較しても、吉野ヶ里が石棺墓であるのに対して、箸墓古墳は類例から考えても竪穴式石室+割竹型木棺であることはほぼ間違いないと推定できます。この箸墓古墳の主体部(竪穴式石室+割竹型木棺)は後の前期古墳の定形となる埋葬施設の源流と考えられます。

さらに吉野ヶ里石棺墓については、弥生期の当地域の墓制を基本的には踏襲しているだろうと思われますが、例えば箸墓古墳と前後して出現した四隅突出型墳丘墓や初期前方後円墳、初期前方後方墳などとの差はどうなるのでしょうか?

四隅突出型墳丘墓は山陰から北陸という地方色がありますが、前方後円墳や前方後方墳は全国的な拡がりを見せています。

これら墳丘墓や初期の古墳(前期古墳)と比較すると吉野ヶ里石棺墓を含め吉野ヶ里遺跡の全体像は、やはり北九州地方における弥生期を中心とした巨大集落の一例であり、伝説上の邪馬台国と直接的に結びつけるのは遺構の様相面からも出土遺物の様相や編年から見ても、無理があるのではないかと思います。

※1)出土した弥生土器が纒向Ⅲ類=庄内Ⅱ式相当の年代を示せば面白いと思います。マニアックな話ですみません。^^;

©2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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