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写真を「撮った」自分とそれを「視る」自分

前回の投稿でも書いたが、撮った自分とそれを視る自分には大きな隔たりがある。撮った自分に対して、視る自分はとても厳しい。
両者の間に一体何があるのか、まるで別人のようだ。

普段撮影する時はあまり考えずに直感的にシャッターを切る。その場でプレビューはせず、家に帰ってPCに取り込んで初めて見る。
撮影機材はデジタルなので、撮ったその場で見て、気に入らなかったら撮り直せば良いのかもしれない。
でも撮ったその場でプレビューして撮り直したところで、大抵は最初の1枚を超えられないことが多く、何より「撮る」ということに対しての集中が切れてしまうのでいつからか現場でのプレビューをやめた。

誰もが簡単に写真を撮れるようになって、仕上がりの確認もすぐできるようになった。
無駄は省かれ、効率的になった。
でもその利便性と引き換えに「意外性」を失ってしまった。
この意外性というのは、良くも悪くも自分の想像を超えたところにあって、こと表現においては、この意外性というのは非常に大事だと思っている。

自分でも想像しなかったような景色を見る・見せられることが、写真に限らず表現の醍醐味だと考えているので、デジカメで撮ってその場ですぐ見ないのも、あまり考えずに直感的にシャッターを切るのも、そのためではある。

やってみないとわからないから面白いのであって、想像できることをやるのは苦痛でつまらないし、わざわざやる意味もない。
写真で言えば、思い通りに撮れたものなんて全然面白くないと個人的には考えている。

話はだいぶ逸れてしまった。
つまり、視る自分を超えるには、撮る、もしくは撮る以前の自分の在り方が重要なのではないか、そこに思い当たるのである。

日頃何を考え、何を視て、どう過ごしているのか。
それが写真に限らず、表現するものには色濃く反映されてしまうのだ。

その昔ある人が言った。
「自分の中には最低でも2人の自分がいて、1人は自分の1番のファン、そしてもう1人はそれをジャッジする1番厳しい批評家がいる」と。

全くその通りだ。
その手厳しい批評家の自分を超えることは容易ではない。
そのためにできること、それは毎日をちゃんと生きることに他ならないのである。






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