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コロナ禍という「長い眠り」から覚めて——非日常から現実に戻るとき

 最近の様子を見ていると、すっかり「コロナ禍」は過ぎ去ったようだ。街には国内外の別を問わず観光客があふれ、人びとはマスクを外している。みな、旅に出たり、自分が住んでいる街から遠く離れた場所へと出張したりする。

 そんな中で生きていると、ふと、「いわゆる2020年以前の「日常」ってこんなかんじだったっけ?」と戸惑うことがある。
 著者であるわたしは、2020-2023年にかけて、20代中盤を過ごすこととなった。人生においては大きな分岐点を迎える年齢である。実際、生活も大きく変わったし、価値観もアップデートされたし、また取り巻く周囲の人びとも入れ替わった。それから、少し収入を得るようになって、金銭感覚もすこし変わった。いままででは買えなかったものも、すこしなら買えるようになった。
 そんなわけで2020年から3年、人生におけるターニングポイントとか分岐点みたいなものをくぐり抜け、現在に至る。いくら世間で「日常が戻ってきた」と言われようとも、わたし自身にとって、いまの「日常」とやらは、ターニングポイント以前の「日常」とは決定的に異なる。だから、「日常ってこんなかんじだったっけ?」と、何とも言えない違和感を感じてしまうのだと思う。

 約3年間、日本の世間では緊急事態モードが続いていた。非日常のなかを生きることが要請された。非日常にいるあいだは、いろいろバタバタしているので、考え事をしている時間もないし、忙しくしているあいだに時間は過ぎ去る。
 自分に近しい人が亡くなったときを想像してもらいたい。亡くなってしまう前後は、まさに非日常である。急遽お見舞いにいったり、各所に連絡をとったり、法事に参加したり、そして家族や仲間と再会して食卓を囲んだりすることだろう。正直言って、故人にとって関係性が近ければ近いほど、非日常のなかに繰り出されることになる。喪主を務めようものなら、ほとんど寝る時間も取れなくなるくらいに、心身ともに、負担のかかる仕事をこなさなければならないはずである。
 重要なのは、その後、である。非日常が過ぎ去ったあとの日常。ただ生きなければならない、平凡な日常である。残された者にとって辛いのは、非日常を対処することではなく、この淡々と過ぎていく日常をやり過ごすことだ。
 通勤や通学のために電車に乗っているとき、洗濯物を畳んでいるとき、そして風呂やトイレに入っているとき等々、些細なこの日常の時間において、ふとした瞬間に、べつにしたいと思っているわけでもないのに、ひとは非日常の世界では考え(られ)なかったことを考えてしまう。そしてタチが悪いことに、この不意にやってくる考え事に自分がやられてしまえば、メンタルは削られてしまう。だから、どうにかしてやり過ごしていかなければならないのである。

 コロナ禍という非日常のあとにやってきた日常。そこには、当然のことながら希望が満ち溢れている。病院に入院していた家族にも出会えるし、遠くにいた友人や家族にも久しぶりに話せるし、念願の海外渡航なども気軽にできるようになった。だがそれは同時に、平凡で淡々としていて辛い考え事をする日々が戻ってきたことも意味する。いかにこの日常をやり過ごすか、いまはまだ答えは出ていない。
 まるで、コロナ禍の非日常という長い夢から覚めたみたいだ。これからは、長い日常を生きなければならない。(いまはtwitter(X)で炎上している)社会学者の宮台真司はかつての批評のなかで、人びとにたいして「終わりなき日常を生きろ」と喝破した。終わりなき日常はもうやってきている。でも、いまはまだ寝ぼけている。べつにけっして夢が良かったわけではないけれど、まだ寝ていたいなと思ってしまっている自分がどこかにいることに気づく。

 はたしてこの感覚に共感してくれる人はいるのだろうか。


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