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「ノルウェイの森」の「あとがき」を求めて

村上春樹の小説にはあとがきが無い。その選択は彼の作品にとって正しいことだと思う。彼の小説において描かれるのは1つの変化だ。物語を通して主人公が揺れ動く変化の狭間が描かれ、その変化の方向性が確定的となった場面を最後に幕を閉じる。変化後の新しい世界で何が起こるかは明確にされず、その先は読者の想像に委ねられた余韻が残る。この余韻を味わわずに、あとがき、解説へと読み進んでしまっては、その魅力が半減してしまうだろう。

とはいえ、読了後に、この部分はどう解釈すれば良いのか、人の意見も聞いてみたいという感情は自然な欲求として浮かび上がってくる。聞けば、村上春樹についての沢山の解説本が既に出版されているらしい。ただ、それらの本に飛びつく前に、一度自分の中だけの「余韻」をここに整理しておきたいと思う。

「ノルウェイの森」の読了後に真っ先に考えるのが、最後のシーンで主人公はどこにいたのか、ということだろう。おそらく物理的な所在を問うたのであろう「緑」の問いかけに対し「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」と小説が結ばれている。ここで著者は何を描いているのか?

この作品の主題は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということであり、物語の最後に主人公は「死」を象徴する「直子」を記憶に内包したまま、「生」を象徴する「緑」と二人で世界を最初から始めようと決意する。記憶の殆どが死者に結びついている主人公にとって、新たな「生」の世界における繋がりは「緑」だけであり、それ以外に彼の居場所を定義するものは無い。それが主人公のいる「どこでも無い場所のまん中」が意味するところなのだと思う。

なお、このシーンで主人公の周りに描かれるのは「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々」であり、新たに世界を始めようとする人にありがちな希望に満ち溢れた情景ではない。これは「生」と「死」の対極ではない関係性を踏まえれば自然だと感じられる。

最後のシーンの一つ前において、主人公が「レイコさん」と性交するシーンも解釈の余地が広い場面だと思う。二人が性交する必然性はどこにあったのか?その直前の「二人だけの直子のお葬式」と合わせて、この場面で描かれているのは、主人公と「レイコさん」が過去を受容し、それぞれ新たな世界へ踏み出そうとしている姿だ。二人の過去にとって性交は特別な立ち位置を占める。主人公にとっては直子の二十歳の誕生日の夜、「レイコさん」にとっては直子と同じ療養所に入るきっかけとなった教え子との出来事。直子を通して出会った二人が、過去を受容し新たな世界へと踏み出すための「生」の儀式として性交したのだと考えると、納得がゆく。

思考の整理はここまでにして、今度は解説本へ進んでみたい。15歳のときに出会ってから10年、村上春樹の小説は自分の感情を揺さぶり続けてきた。彼の作品を原著のまま読めることを嬉しく思う。


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