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広至5~12人の優しい日本人のコト消費~

「あんた、人の命をそんな軽々しく扱うのかね。正しいと思うことをしろ」(映画「十二人の怒れる男」)

現代は"正しい"が極めて難しい時代になったと思う。
何より、本当に"正しい"ことが何かというのは今まさに世界が探している局面に直面しているからこそ、社会も私達自身も不自由を痛感している真っ最中だ。
そんな日に、オンライン会議システムzoomを利用した新形式で傑作コメディ「12人の優しい日本人」を上質のエンタテイメントとして作り上げ、今を覆う閉塞からの活路の一端を拓いた。
劇終わりのカタルシスに私は、孤独に閉じた部屋で快哉を叫んだ。

「12人の優しい日本人を読む会」の試み

1950年代アメリカでテレビドラマ、映画となった討論劇「十二人の怒れる男」をモチーフに、陪審員制度を採用した架空の日本を舞台に移してエッジの立った喜劇に仕立てた三谷幸喜と劇団「東京サンシャインボーイズ」の名を轟かせたコメディ劇「12人の優しい日本人」。
若く美しい女性の被告人に対する憐憫や被害者への非難感情などを理由に、議論もなく全員「無罪」の評決で一致して終わろうとする所から始まる。
しかし、2号陪審員(相島一之)が違和感を述べ、「納得してから無罪に入れたい」として議論の継続を求めて「有罪」に評決を変更してしまう。
厭々ながら仕方なく、12人の日本人陪審員達は議論を始めた。

【前編】(5月中は公開予定)

【後編】(5月中は公開予定)

この作品は、そもそも法廷劇に似た作りに偽装したスリリングな心理劇だ。
たとえば、正当防衛について議論する部分があるが、日本では刑法第36条1項「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」が該当する(更に厳密にいえば、初演当時は旧仮名遣いの読みにくい改正前の条文が該当したはず)が、そういった定義はない。
そもそも、日本の刑事司法では「被告人」という用語を用いるはずで、全て「被告」と呼んでいる時点で、リアリティよりもエンタテイメント性を重視していることを示唆している感さえある。
だが、"もっともらしい"フィクションの討論を進めることで、個人と社会性のようなものとの関係が舞台上であぶり出されるというのがそもそもの妙味だろう。

一方、zoom会議形式だと、演劇や映画では可能なセリフや画面構成における役者の役割の軽重を超えて、無言で動きの制約が大きい中で見せ続けている所作が窺えるという舞台とは異なる特殊な側面が強調されているので、これまでの演劇とは異なるグロテスクな面白ささえ浮き彫りになる。
セリフの話し手が入れ替わる際は不自然な間が少なく感嘆させられたが、セリフを掛け合わせる部分では流石に順番がおかしい箇所もある(後編13分頃の相島一之と近藤芳正の掛け合いとか)。
それでも、グロテスクなほどの感情の動きが見せる新たな妙味は、強いカタルシスを覚えた。
言い換えれば、客観的なパッケージの完成度というべき、「モノ消費」型のエンタテイメントではなく、個人の体験・心理の流れそのものを味わう「コト消費」型の現代的エンタテイメントの側面がzoom会議で表現できたといっては大袈裟だろうか。
演劇の新たな裾野の開拓ともいえる試みは、上質な劇に結実した。

そもそも、「十二人の怒れる男」とは

さて、「十二人の怒れる男」について少々。
「12人の優しい日本人」のモチーフとなったこの作品は、ヘンリー・フォンダ演じる8番陪審員を中心に、曖昧な情況証拠を法廷の外という制約の中で考えられる論理で分析し、強固に見えた「有罪(guilty)」の土台を崩して「無罪(not guilty)」の方向へ導いていく。
あくまで、「無実」や「潔白」を示す"innocence"ではなく、立証責任がある検察側の証明が不足しているとする「無罪」を明らかにしようとするに過ぎない。
これが「アメリカの良心」の表現ともいわれ、客観的な事実を重ねて個を尊重する美点を明らかにした。

逆に、それぞれの感情から社会性と共感を探していく聖徳太子以来の「和を以て貴しとなす」とでもするような討論劇が「優しい日本人」だということが、改めて確認できた思いがする。
評決が決まった後の3号陪審員の退場のセリフ「ああ、面白かった。またやってみたいですね、陪審員」に始まり、それぞれの本音や嘘が語られる。
劇中の表現から引用するなら、「十二人の怒れる男」は8番と9番の握手から高らかなファンファーレで終わるのに対し、酸いも甘いも噛み分けたジャズ・ピアノの流れる中、8番と3番を合わせ持つ2号を見つめるのが「12人の優しい日本人」なのだ。

恐れながら、見失わずに

最後に、別の作品を紹介しておこう。
正義を正面から問うた作品が「十二人の怒れる男」なのだが、その矛盾もエンタテイメントで語られるようになって久しい。
弁護士だったキャリアを活かした法廷劇を多く執筆する作家ジョン・グリシャムによる小説を原作としたこの映画は、「アメリカ的良心」を現実に執行することがどれだけ難しいかを、逆説的に明らかにするような作品で頗る面白い。
ヘンリー・フォンダが渋く突破した正義とは対照的に、マット・デイモンは才気煥発な若さをもってしてより深い悩みをみせる。

こうした作品群を見ると改めて思う。
間違いを犯しているかもしれないという恐れを抱きながら、己を見失わずに他人の考えと混じらせ、共有できるものも共有できないものも見出していくこと。
それを繰り返していくのは、何だか不安ばかりが募るのだけれど同時に、時たまこの上なく心地よい瞬間が訪れるものだな、なんてことを。

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