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田舎にはない都市部の公園の偉大さ

 学生時代の4年間を京都で過ごした。徳島で就職してからは、数カ月に1度、京都へ遊びに行く。観光が目的ではない。4年の月日は、私に市民権を与えた。市民権を得た以上、観光客として京都に足を踏み入れることはもうない。京都への旅の目的は、友人に会うためであり、鴨川の河川敷でぼんやりするためであり、銭湯に赴くためであり、学生時代にお世話になった番台と会い、風呂掃除を手伝うためであって、観光することではないのだ。

 ただ、この中途半端な、観光客でも市民でもない旅人は、不器用なくせに臆病で、時間の使い方をてんで知らないので、いつも旅先で失敗し、悔んでばかりいる。10月だったか、11月だったか、秋だ、少し肌寒くなったころ、一人、前日の夜に思い立ち高速バスを予約して、朝、京都へ向かった。当然、無計画なので、京都駅に着いたものの、知り合いとの都合は合わず、行きたい場所もなく、困った、いったいどこへ行けばいいのか、目的地がなければ足が動かない、と慌てる。高速バスに乗っている最中は京都市民さながらの心の持ちようだったが、いつの間にか京都駅を埋め尽くす観光客の一人になっている。

 京都市立動物園だ、岡崎の、あそこへ行こう、学生時代に一度も行ったことがないし、時間をつぶすなら最適だ。そうやって、消極的な動機によって足が動く。

 さて、ここからが本題なのだが、動物園の近くの岡崎公園で救われる体験をした。
 岡崎公園は平安神宮につながる参道を有した広大な敷地で、平日の昼間でもたくさん人がいる。ブルーシートの上でお昼ご飯を食べる園児たちや、犬を散歩させる貴婦人、コーヒーを片手に本を読む学生、、、。いろんな人がいる中、孤独な私は、やすやすと同類を見つけだすことに成功した。孤独なその若者は、ぼおっとした表情でベンチに腰掛けている。私の孤独はそうやって、孤独な存在を認知することで、慰められ、救われるのだった。孤独な若者に感謝しながら公園を後にし、自信に満ちた足どりで動物園に向かうことができた。

 振り返って、意外にも都市部の方が、孤独を紛らわすことができる環境が整っていると感じた。都市部の孤独は、世間でやけに強調されているように思うが、田舎にも孤独はある。確かに都市部にはない共同体意識が田舎にはあるが、それは私のように、徳島県南の馴染みの薄い土地に仕事上やむを得ず生活することになった場合は別だ。共同体がある以上、共同体の内と外があり、私はどこからどうみても外にいる者であり、ひょいひょいと孤独が訪れる。

 田舎は、こうした時に不便だ。孤独を紛らわすことが難しい。田舎にも公園はある。しかし、小さな小さな公園だ。数も少ない。人は来ない。

 大里松原海岸というおよそ2キロにわたって南北にのびた海岸がある。そこでたまに、トランペットを吹く。イカ釣りの客が2、3人いる。分かってほしいが、この時の私は孤独者ではない。孤独者とは、確かな目的を持たず一人でいることだ。そして言わずもがな、孤独を感じている人だ。この時の私は孤独ではなかった。トランペットを上手に吹くという目的があって、それに向って一生懸命だった。
 ふと思い立ち、この海岸を端から端まで走ってみようと思った。薄暗い夕方、端まで走り切った時にはもう辺りは真っ暗になっているだろう。小石ばかりの海岸に足をとられながらも走った。そうして中間地点を通過した時、私はここにも孤独者を発見したのだ。波打ち際に座りイヤホンをつけた高校生、うつむいて表情はよく見えない。私は汗をだらだらかきながら、田舎で孤独者を見つけだすのは都会よりもよっぽど難しいと思った。

 先日、東京に用事があり、飛行機で向かった。羽田空港に着いて、電車で本郷3丁目へ。目的地に着いたが、約束の時間までまだ余裕があったので、東京の街中をぶらぶら歩いた。
 そうだ、公園へ行ってみよう。
 思い立ち、グーグルマップの検索欄に「公園」と打ち込むと、おびただしい数の公園が表示された。私が住む町のコンビニの数よりはるかに多い。私が向かったのは本郷2丁目にある文京区立本郷給水所公苑。まったく、漢字が多くて読みづらい公園だ。そこには高さ2メートルほどの地球儀があり、バラや、あとは何だったか、とにかく色鮮やかな花を咲かせた庭があり、当然、孤独者に満ちていた。ベンチが3台並び、1台に1人ずつ、何もしない人たちが座っている。ちょうど孤独になってきていた私は、それに和まされた。一人の若者と目が合い、すっくと立ち上がって、私の方へ近づいてきた。話しかける、なんてことはなく、私の目の前を通り過ぎ(私を少し窺ったようではあったが)、花壇の周りをうろうろした挙句、また同じベンチに戻っていった。

 孤独者の共同体。そうしたものが都市部の公園にはある。

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