「文学ってこわい」を乗り越える

僕は長いこと、ドキュメンタリー、ノンフィクションを好んで読んできました。歴史、電気、実用書、解説書が好きで、「文学」と呼ばれるものはとっつきにくくてあまり読んでいなかったんです。

お話の内容が難解とか、筋が面白いとか、そういうとらえ方で文学をとらえていた僕は、文学なんで、味わい方がよくわからんと思っていたんです。
あれを理解し,味わえる人たちってすごいと思っていました。芥川賞受賞作品なんて、僕には理解できないだろうと距離を置いていました。

ところが、ある本を読んで一転、太宰治などをよく読むようになりました。
又吉 直樹さんの「夜を乗り超える」です。


この本の中の次の言葉が私の心を射抜きました。

わかっていることをわかっている言葉で書かれていても、あまり共感はしません。言葉に出来ないであろう複雑な感情が明確に描写されたとき、「うわ、これや!」と思うんです。正確には「これやったんや」と思っているのかもしれません。自分の心の中で散らかっていた感情を整理できる、複雑でどうしようもなかった感情や感覚を、形の合う言葉という箱に一端しまうことが出来るのです。

複雑でどうしようもなかった感情や感覚を、形の合う言葉という箱にいったんしまう。
そのような経験が好きで、又吉さんは本を読んできたんです。

「そういう読み方があったのか。」
なんとなさけないことに、僕は50も半ばになって初めてそういうことを感じました。


僕にとって文学は、人と話をするための土台となる教養とか、一応知識人的な顔をするための通過儀礼てとして読むというような感覚に近い思いで捉えていました。
つまり読みたくて読んでいたわけではない。
あくまで読書の経験の一つとして読んでいたわけです。

そうではなかった。
言葉そのものを味わえばよかった。
わかるわからないはその結果としてあるんです。

読み急ぐ必要は何もない。
作家が言葉を選んで一行一行紡いでいったものを、その同じスピードで一行一行ほどいていけばいいんです。

そのこと自体を楽しむ。
それが、きっと文学と呼ばれるものの楽しみだったはずです。


それなのに,アクタガワとか、ダザイとかナツメとか、受験勉強の問題の例文として出てくるものだから、いきおい高尚なものだという感覚がインストールされ、難しいものだと思ってしまっています。

ですから、これらの本を読む時には、書斎で、いすにこしかけて、正しい姿勢で、ノートでもとりながら読む勉強めいた読み方をせねば読み解けない、そんな高尚なものだと思っていたんですよね。


もちろんそうではないことは知っています。
でも感覚がそうだったんです。

しかし、これらの作家の作品が書かれた当時、夏目漱石の作品が掲載されていたのは新聞の連載。
人々はそれを物語として消費していたはずであり、何かを学ぼうとか、読み解こうなんで思って読んでいたわけではなかったはずです。


いつのまに高尚なものになってしまったのか。
本来は気軽に消費されていたはずの文学は、「学」などとついてしまったから、「楽しむ」ことから遠くなってしまいました。

又吉さんの本を読んでから、文学は僕の中で「復権」しました。
学ばせていただく本ではなく,ソファにゆったりとかけてリラックスして読む本に。


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