一九八八年に私が大学に入学するとすぐに、習得する第二外国語の選択に迫られた。確かフランス語、ドイツ語、そして中国語の三ヶ国語の中から選択しなくてはならなかったと記憶している。日本でしか生活したことのなかった私にとっては、その三ヶ国はどれも未知の国であった。フランスにはフランス料理とシャンソン、ドイツにはヒトラーとクラシック音楽くらいのイメージしかなく、そして中国にはほとんど何のイメージも持たなかった。十八歳の少年としては少し知識に乏しい感があるが、アメリカとイギリス以外にはほとんど興味がなかったのだ。そして将来自分がこれからどんな人生を歩むのか、また歩みたいのか、まったく何も持っていなかった。それまでに読んだことのある本を思い返してみると、フランス語で書かれた本はカミュだけだ。『異邦人』を読んでみたが、さっぱり面白くなかった。ドイツ語は、ヘルマン・ヘッセとフランツ・カフカ。二人には気に入った小説がある。中国語で書かれた本は読んだことがなかった。そんな訳でドイツ語を選択することとなり、未知の国ドイツとの接点が出来た。

 周りの同級生たちも皆似たような状況で、似たような理由による選択をしていたようだった。フランス料理のメニューを読めたらかっこよく女の子にもてるかもしれないとか、村上春樹の小説の主人公がドイツ語を選択していたからとか、アルファベットを見るのも嫌なので漢字の言語が楽そうだとか。考えてみると、この選択は私が親抜きで行った初めての選択だったかも知れない。もちろん、私の両親は比較的自主性を重んじる考えを持った人間で、小さいときからいろいろな選択はしてきたつもりだったし、高校で文系か理系かの選択をしたのも、入学する大学の選択をしたのも私だったが、そこにはいつも両親の目があったような気がする。初めての一人暮らしを始めて、初めてした選択が第二外国語の選択だった。そこにはもう両親の目はなかった。両親は私が何語を選択しようがかまわないだろう。ただ、その選択をして一人で大学構内を歩いているときに、何とも言えない開放感というか、幸福感がやってきた。ちょっと忘れがたい瞬間だ。

 一人暮らしは母親と一緒に入学手続きをするついでに駅前の不動産屋で決めた。値段が安かったのが一番の決め手だった。大学までは実家から通えなくはなかった。高校での通学時間とだいたい同じくらいだったし、朝の始業時間は少し遅かったから高校よりも楽になるはずだ。ただ、多少の我儘を言ってその部屋を借りてもらったのだ。贅沢は言えない。大家は同じ敷地内に住む六十代の夫婦で、二人とも教師を定年でリタイアしていた。毎回近くの大学に通う学生を住まわせていた。多少共産主義に偏った考えを持っていて、早く帰宅したときには一緒に酒盛りをしたがったが、おおむね明るくやさしい夫妻だった。

 その後改めて世界を見渡してみると、私の周りには意外と多くのドイツが存在していた。メルセデスベンツ、BMW、アウディーといった高級自動車に、フランクフルトソーセージ、幼い頃に近所で最も怖がられていたドイツシェパード、小学生のときに伝記を読んで感銘を受けたシュヴァイツァー、「カルテ」などの医学用語、借りた部屋の大家が自慢げに見せながら使うモンブランの万年筆、そして彼は、私がガールフレンドを部屋に連れてくるところを目撃した後は「メーチェン来たでしょ、メーチェン」としつこく質問してきた。(メーチェンはドイツ語で少女の意)

 ドイツと日本は似ているところがたくさんあるのだろう。税金など、今も日本の基礎をなしている法律や制度にはドイツに範を採ったものが少なくないし、第二次世界大戦では同盟を組んで(その軍事体制の中)共に大量の虐殺を行い、共に敗戦した。そして敗戦後は西ドイツと日本は共にヨーロッパ一、アジア一の経済大国に成長した。東西の分裂はなんとも言いようのない悲惨な体験だったろうが、日本にも(数は少なくても)似たような悲劇が確かにあった。そしてベルリンの壁崩壊のニュースは全世界に感動をもって流された。六〇年代に学生運動を経験してない私でさえ涙を流した。TVのニュースキャスターが少し寂しそうに「これで何かが終わった」と言っていたのが印象的だった。靴、アパレルの仕事をしているとドイツ人と出会う機会は少ない。だから実際のドイツ人が私のような日本人に対して何かしらの相似を認め、親しくなりやすいのかどうかはわからないのだが、スピルバーグの映画『シンドラーのリスト』を観る限り、魅力的な人の多い国であることは間違いない。

 キリスト教と仏教という宗教の違いなどもあるが、ドイツと日本の一番の違いは島国か大陸かという点だろう。我々日本人の多くがそれほど大規模の移動を経験していないのに対して、ゲルマン民族大移動の時代から彼らは移動することにシビアである。その移動にはしっかりとして、長距離を歩くことを前提とした靴がいまでも求められる。靴底は厚く、木型は捨て寸(つま先の余る部分)が短く、丸いつま先を持ち、土踏まずをぐっと上に押し上げて全体を内側に振ったものが一般的である。伝統的にボックスカーフやコードバンといった張りがあって頑丈な素材を好む。また、コンフォートシューズと呼ばれる、人間工学を基礎として歩きやすさという機能を追及した靴の分野では世界一の先進国として知られている。(靴の中敷においてもしかり。)

 多くの日本人の祖先が農耕民族であったのと違い、彼らの祖先は狩猟民族である。歩くことに関してシビアになるのも当然だが、イギリスなどとは違って、移動を余儀なくされてきた民族的な遺伝子が、ヨーロッパでも特異な靴文化を育むことになったのだろうと推測される。私が好きなドイツの靴は、(皮肉なことに)ヒトラー時代の軍靴である。他の国とは違う独特の形をした軍靴(ブーツ)が多い。乗馬用のロングブーツにはこの世のものとは思えないほど美しいものがあったし、ユダヤ人にひもを結ばせるときに正面に跪かせないように、ひもをサイドに配したブーツも特殊な存在感がある。

https://wfg-net.com/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?