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 イスラエルという国には何か他の国にはない通念があるように感じられる。もちろん、通念というのはその国々によって様々なのだろうが、この国には、何というか、人間の根本に関わる部分での通念に異質な何かを感じる。新しい国であることも影響しているかも知れないし、この地を巡る民族と宗教の歴史がそうさせるのかもしれない。この何十年か戦争の絶えない国として世界中の関心を集め、莫大な軍事費が費やされるとともに、たくさんの尊い命が兵器による虐殺によって失われ続けていいる。イスラエル自身はアメリカの強力なバックアップを得てパレスチナを統治し、そこに住んでいた人々を難民にしたことで中東諸国との対立は泥沼のような深刻な問題となって久しい。イスラム原理主義者たちのテロは後を絶たず、イスラエルのモサドによる事件も後を絶たない。

 スピルバーグの映画『ミュンヘン』を観ると、その陰惨さの一端が垣間見れる。映画としては非常に後味の悪い、どこまでも救いのない暗い映画だが、これに目を背けることは罪なのだろうか? 人間の根本は善であると信じたいものとしては、あまりに耐え難い映画だ。それともこれが人間の本質なのだろうか?

 国際政治における中東情勢は学問的には非常に興味深い問題であるようだ。何でもケーススタディーの題材としてはすべての要素が凝縮して盛り込まれているそうだ。民と国の問題の縮図。そして憎み合い、殺し合う ― 世代を継承して憎しみ合い、殺し合う ― この事態こそが人間の本性の正体だとまでは言わずとも、少なくとも我々が繰り返してきた人間の歴史なのかも知れない。

 二〇〇九年に村上春樹氏がイスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」を受賞したことが話題になった。日本人の現役作家が海外の権威に評価されたこともニュースではあったが、今まで何度かノーベル文学賞の候補になっている作家だ。それほど驚くべきことではない。それよりも氏が受賞の際に行ったスピーチの内容がニュースになった。彼は晴れがましいその受賞の席で、イスラエル大統領を始めとした国賓の列席するその公式の場で、堂々とイスラエル政府のガザ攻撃を批判した(ように報道された)。スピーチの全文を知ると、恐らくは世界中の紛争に関わるすべてのシステムに対して否定の意を表したのだ。もちろん、イスラエル国民の個人個人に対しては批判めいた感情は全く抱いておらず、パレスチナ難民を擁護する意思もなかった。その正邪は歴史が決めることだとして。

 村上氏自身は迷ったそうだ。受賞を辞退するというのが一番ことを荒立てずに自身の信条にも申し訳が立つ選択であった。脅迫めいたこともあったらしいし、まわりもそうすることを求めたらしい。しかし彼は敢えてそれを受け、イスラエルに赴き、世界に意見した。無関心、他人事のようにしていることを彼は自分に許さなかった。もっとも彼ほど影響力を持った人間はそれほど多くは居ないし、彼はそこで世界に向かって声を上げることを自分の使命と捉えていたのかもしれない。いずれにしろ、そのニュースを目にしたときの感動は忘れがたいものだ。

 彼は卵(個人)と壁(システム)という比喩を用いて、世界中に意見した。あらゆる紛争が個人の責任ではなく、個人の集合体が作り上げたシステムのひとり歩きによるもので、我々個人は自分たちが作ったシステムに個人をコントロールさせてはいけないのだと述べた。我々個人の生きる理由は幸福になるためであることに疑いの余地はなく、個人レベルでは、殺し合いを望む選択肢は存在しない。なのに、世界中で殺し合いが絶えることはない。それは、システムを野放しにしている、我々個人の無関心、無力感から来るものなのだ。我々個人の積極的な思考、世界との関わりによってのみ、平和な世界が実現されるのだ。彼が身をもってスピーチしたかったのはこのことであったと思う。

 村上春樹氏の小説には様々なファッションが登場する。比較的頻度が高いのが、ツイードのジャケット、コットンのパンツ、オックスフォードのボタンダウンシャツ、ニットのネクタイ、テニスシューズ、バスケットボールシューズといったアイビーアイテムである。きっと氏が若い頃に洗礼を受けたアメリカンカルチャーの影響であろう。六〇年代、アイビーリーグと呼ばれるアメリカの大学に通う学生のファッションが日本にセンセーショナルに紹介された。いつの時代も古いルールや伝統を壊し、新しい解釈を表現するのは豊かな学生たちだったのだ。ちなみに、小説中にはアルマーニ、ヒューゴ・ボス、フェラガモ、コム・デ・ギャルソンなどの有名メゾン系のブランド名を登場させることもある。そして革靴に関しては何といってもコードバンの靴が頻繁に登場する。靴のスタイルに関しては、ローファーかそれ以外といった簡単な描写に留まる。

 コードバンという素材は馬の臀部(お尻)の革の一部から採れる、特異的に繊維密度の高い革のことを言う。靴に用いられるその他の子牛、やぎ、鹿、羊、豚といった革に比べると、圧倒的に目の詰まった、そして分厚い革であるコードバンは一九五〇年代から靴や財布、ベルトなどに用いられ珍重されてきた。特長は、革の宝石とまで言われるその光沢と耐久性の高さにある。この革をなめすにはピットと呼ばれるプールのような大きな槽と特殊な施設が必要で、原皮の状態からは一年近くの歳月を要する。一九六〇年代にはヨーロッパ各地をはじめとして世界各地で盛んに製造されたが、年々その数は減少の一途をたどり、二〇一〇年現在では世界で二社しか残っていない。本来は高価なものであった革靴が大型の機械と接着剤で大量生産できる安価なものになってしまったことと、製造に手間がかかりすぎるのがその要因であると推測されるが、残った二社はアメリカのシカゴと日本の姫路にある。アメリカには高価なコードバンを用いた高級靴の大きな市場があったし、日本にはランドセルの文化があったので残ったのかもしれない。

 コードバンの製造には、ひたむきな努力と、良質の水、そして自然乾燥をさせる風が必要である。愛情をこめて、丁寧につくりあげられたその革の魅力に捕り憑かれたものは村上氏だけではない。いま、日本はもちろん、世界中で多くの人がそれを求めている。飽食の時代だからこそ、逆に本物で、確かなものが手に入りにくくなっているのだ。そして私も村上氏のように、無関心、他人事で終わらせることのないよう、この時代に本物をテーゼし、その価値を啓蒙していきたいと思う。何故なら、その昔ながらの本物こそが、人間のパートナーとなり、小さいかもしれないが、我々一人ひとりの人生を豊かなものにしてくれるのだ。大量生産品にそれはできない。

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