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たったひとりの恋物語 第8章 ハトの世界

第8章 ハトの世界

引いてダメなら押してみよ

「ふ~ん、ふ~ん、ふふふ~ん、ふふ~ん」
明の鼻歌が、耳に入る。
それと同時にベーコンの香ばしい匂いを卵の柔らかい香りが包み込む。
多分……、ハムエッグだ。
朝食が毎朝用意される日常。
こんな日が来るとは思ってもみなかった。
朝から、嗅覚、聴覚が刺激され、満たされる。
幸せというのは、こういう風景のことをいうのだろう。

もう少し、この幸せを貪っていたい。
2度寝の喜び、そして食事が準備されているという日常。
これは、誰しもが求め、そして、その安心感に浸りたいというと考えてもおかしくない。
私は、手放しかけた夢を再度手繰り寄せる。
この幸せのときをまだまだ、貪っていたい……。

「もう~、弘毅~!
 朝だよ~。ご飯もできたから~。
 私もそろそろ準備しなきゃだから、起きて一緒に食べよ~よ~」
明がベットに近づいてくるのがその足音から、わかる。
軽やかに、だが少しの期待を込めた歩き方だ。

「ほら~。
 いつまでも起きないと、お姉さんがいたずらしちゃうぞ~!」
明の顔が近づいてくることが、その香りからわかる。
淡い桃と柑橘系の混ざる香りが、私の鼻腔をくすぐる。
私は、腕を伸ばすと明の身体を掴み、ベットに引き込むと同時に身体を反転させ、明の胸に顔を埋める。

「うん~……、もうちょっと~……。
 このふかふかで、モフモフっとする~……」
いままでは、こんな話し方なんてしたことは無かった。
幸せとは、人を幼稚化させ、弱体化させるものだと、最近知った。
私は、こんなにも人に甘えることができるとは思ってもいなかった。

「ん……もう……。この甘えんぼさんは、いつから私の子どもになったのかしら……」
明の両腕が私のアタマを強く抱きしめ、そして、その二つの幸せの中に深く鎮める。
この中で、私は幸せで溺れてしまうのではないだろうか?
そんなことを考えていると、明の両腕にチカラがこもる。

ん……?
あれ……?
苦しい……、息が出来ない……。
あれ? オカシイ……。
アタマを動かそうとしても、明の両腕のチカラが強くて動かすことができない。

「秘技:極楽スリーパー……」
明の艶めかしい声が、私の耳元に吐息と共に届く。
それと同時に私のアタマを締め上げる、明の腕にチカラがこもる。

「んごぉ! んごおぉおおぉ!!」
マジで息ができない!
確かにこの「二つの幸せの中で溺れたら」とはいったが、それは比喩表現であろうが!
このままでは、冗談抜きに窒息してしまう。
しかし、相手は元女子ハンドボール部主将。
その腕力は未だに衰えていない。

「ふふ~ん。
 観念したかね、ワトソン君……。
 いつまでも惰眠を貪っているから、こういうことになるんだよ……」
明の意地悪な声が、耳元にコダマする。
イカン……。このままでは、マジで「あっちの世界」に連れていかれるヤツだ……。

朦朧とするアタマを強く振る……、が一向に明の腕のチカラは弱まらない。
「く……、引いてダメなら、押すだけだ!」
私は、両手で明の二つの希望の丘を、両側から私のアタマに押し当てるように寄せる。
それと同時にアタマをグリグリと、その胸骨中央により深く押し当てる。

「ちょ……、こ、このバカぁ~!!」
明は私のアタマから腕を引きはがすと、右肘を私の左頬に喰らわせる。

嗚呼、これも含めて、幸せなのだと私は噛みしめるのだった。

―――――――――――――――――――――
「今日は、ゴミの日だから。
 じゃあ、後は弘毅、よろしくね!」
朝食を済ませると明は、バタバタを身支度をし、ハンドバックを手に取り玄関へと向かう。
私は、朝食が乗っていたお皿を流しへとゆうるりと運ぶ。

「ん、んぅ~。いってらっしゃ~い。
 今日は、遅いの~? 夕飯は勝手に作っておくよ~」
朝食は明が。夕食は私が。
それがいつの間にか、私たちの生活に定着してきている。
「うん! 任せたよ~!!
 あ、今日はオムライスがいいな~!」

「へい、へい。
 心を込めて作らせていただきます~」
明のこういうところがしっかりしている。
そんな話をしていると、明が振り向く。
「あ、忘れていた!!
 弘毅も頑張って!
 じゃ、行ってきま~す!」
振り向きざまに明は私にキスをすると、慌ただしく出かけていった。

「ッ……とう、に……。
 コイツが、幸せってヤツか……」
そう独り言ちると、私は背筋を伸ばす。
「うっし!
 んじゃあ、今日もやりますか!」

私は、ノートPCを開き、キーボードを叩きはじめた。

ススム先に待つのは虎か蛇か?

大学を卒業後、私は就職をしなかった。
かといってまったく仕事に就かないわけにはいかない。
新卒派遣という働き方。
最近では、新しい就職方法であるとのことで注目されているらしい。
だが、私がこの仕事を選んだことには意味がある。

執筆の時間が十分に取れるからだ。
私は、就職よりも小説家になるための道を選んだ。
派遣の仕事は、基本的に定時はじまりで、定時終わり。
若干の責任を負わされるものの、社員のそれに比べるとそれは少ない。
だからこそ、選んだのだ。
執筆に集中するために。

小説家になるためには、幾つかのルートがある。
しかし、そのどれもが狭き門である。
自ら数百万のお金を積み、「自費出版」という形でデビューする方法。
もう一つは、出版社が企画する新人賞に応募し、賞を獲得する方法。
実績やコネのない私が小説家になるためには、正面突破しかない。
私は仕事の無い日は、とにかく書いて、書いて、書き、そして応募し続けることを選択した。
「学会でいくつもの論文を出してきている、私であれば、容易いコト」
そう思っていた私は、本当に甘かった。

現実とは、厳しく、そして冷徹なモノ。
今さらになってそれを私は、感じていた。
だが、明の姿を見ていると落ち込んでいる時間すらもったいない。
だからこそ、今日も私は書く。
自分の夢を、明と約束した夢を叶えるために。
この一文字で誰かを変えるために。

―――――――――――――――――――――
「んん~!!
 やっぱり弘毅のオムライスって、サイコ~!」
この明の顔が見たいからこそ、私は毎日夕飯を作っているのだと思う。
満面の笑みが、私の小さな悩みや、モヤモヤさえ消してくれる。
当たり前の毎日が、こんなにも愛おしく、大切だとは思っていなかった。
派遣の仕事、そして、毎月のようには新人賞に応募するも、受理さえされない日々。
だが、この笑顔があれば、私は頑張れる。

「あ~、そういえば、弘毅になんか届いていたよ~。
 この時期だと、奨学金の支払についてかな~。
 あれ? でも、弘毅は、奨学金、申請していなかったんじゃなかったっけ?」
結婚式はまだ上げていない。
それは、私がある程度の成果を上げるまでと、待ってもらっているのだ。
籍は、すでに入れた。
明の誕生日に合わせて。

家計は私が管理している。
できうる限り、無駄を省き、だけど、明には無理をさせないように。
とは言っても、贅沢をしないわけではない。
二人の記念日には、焼肉を食べに出るようにしている。
明のお気に入りの店は、高級焼き肉店。
今の家計では一年に一回行ければいい方だ。

そんな中で、請求書? そんなものが届くはずがない。
私が家計をすべて完璧に管理しているのだから。

「ん~。
 これ~。夕日企画~!? なんか、危ない感じ?
 それとも派遣会社のなんか~?」
明のコトバに反応する。
……夕日……、企画だと……!
明の手元の封筒を強引に奪い取る。

「ちょ、っちょっと、弘毅、痛いって!」
明は、私の気迫に身を引く。
「……ご、ごめん。
 だけど……、ちょっと……」
私は震える指でその封筒を丁寧に千切る。
命の端を少しずつ落とすように、丁寧に、丁寧に。

封筒の中から、一枚の紙を取り出す。
それは、ずっと待ちわびていたようで、絶対に届かないかもしれないと思っていたモノ。

―記―
以下、夕日企画新人賞とする。
「たった ひとりの恋物語」
著:鈴木 弘毅

―――
全身から、汗が噴き出る。
それが、歓喜なのか、恐怖なのか、悲痛なのか。
さまざまな感情が一気に私に襲いくる。
そして、涙が勝手に溢れ出て、止まらなくなる。
俺は、俺は……。

「ちょ、っちょっと!!
 弘毅、一体、何があったの?
 なんで泣いているの? その書類、いったいなんなの?」
明が、眉毛をへの字にしている。
今は、明の顔を見ることができない……。
「もう、アホ!!
 ちょっと貸してみて!!」
明は強引に私の手元から書類を取り上げる。

私は、目から溢れる涙でその視界が歪んでいる。
ああ、ちょっと、今は、どうしていいか、わからない……。
涙で歪んだ目の前の明が、書類を読むのがわかる。
そして、口元を抑える。

「弘毅!!
 やったね! 本当におめでとう!!」
歪む視界であったとしても、明の顔が近づいてきているのがわかる。
嗚呼、これでもかってくらいの笑顔じゃあないか……。
数秒後、私の首元は明の両腕に、全力で締め上げられていた。

ココからドコか

授賞式を終えた私は、夕日企画の会議室にいた。
これから正式に契約、そして出版に至るまでのスケジュールを調整するとのことだ。
どんあに平静を装おうとも、挙動が不審になる。

そりゃあ、そうだ。
誰もが体験できるものではない。
望んではいたが、まさか新人賞を受賞し、小説家としての一歩を踏み出せるとは思ってもみなかった。

広い会議室に私はポツンと待たされる。
最大の不安と期待を纏った私は一体、どのように見えているのだろうか?

「ガチャリ……」
会議室の扉が開く。
ここから、俺の人生が開く。
そして、華開いていく。
もう、止まることはできない……。

―――――――――――――――――――――
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン……

「おい! 鈴木! 生きてんのか!?
 返事しやがれ!」
玄関を何度も殴りつける音と、聞きなれた声が聞こえる。
私は、どうやら眠っていたようだ。
夢の中で、明との淡い生活を過ごしていたというのに、なんで邪魔をするんだ。
こんな、なにも希望の無い世界で、ゴミのような生活をまだ送れというのか……。

枕元のスマホを引き寄せる。
どうやら記憶が三日ほど、飛んでいるようだ。
最後に覚えているのは、全身が焼けるようにアツく、それでも流し込んだ発泡酒。
そして、肌色罫線のアイツに向かったことだった。

未だに玄関では、罵声とも取れなくない声が続いている。
私は、まだ重たい身体をベッドからお越し、玄関へと向かう。
「あぁ、メンドうくせぇ……」
そうボヤいている私がいた。

玄関の扉を開ける。
そこには、久しく見る佐藤の顔があった。
佐藤は、私の顔を見るなり右腕で私の首を引きつけ、抱きしめる。

「バカやろう!! くっそ、心配したじゃねぇか!
 死んでいるのかと思ったぞ!」
佐藤の声が、キモチ、かすれている。
……泣いているのか……?
まだ、朦朧とするアタマを軽く振り、佐藤に聞く。
「お前……、もう、いいのか?」
語彙力なんてものが、あったものではない。
佐藤はその腕にさらにチカラを込め、言う。

「バカやろう! 俺のことなんて、どうでもいいんだよ!
 若い奴等から聞いている! お前が、俺のことを……」
最後まで言い終えず、佐藤は私の肩の上でしゃくりあげる。
あぁ……、この状況、私はどうすればいい……?
そんな私の気配を悟ってか、佐藤がその腕を離し、両手で私の二の腕を掴み、言う。

「なによりも、生きていてよかった。
 体調もどうやら良さそうだな!
 とりあえず、しっかり飯を食って、明後日からまた一緒に仕事をしよう!」
佐藤は本当に嬉しそうに笑顔を浮かべ、私に語りかける。
だが、その顔が……、私にとっては、まったく理解が出来ない。

佐藤の身体を引きはがすと私はいう。
「もう、俺は、ゴミの仕事はしない……。
 俺は、ようやく作家になったんだから……」

#創作大賞2024
#お仕事小説部門

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