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選択することで人生悪くなることはない

僕はめったに人から相談されることが無い。

しかし、そんな僕に稀に悩みをぶつけてくる人もいる。
たいてい死にたかったり、辛かったり、苦しかったりする。

その人の苦しみを理解することはできないし、
人を傷つけないようなアドバイスができるわけではない。

でも、僕自身は真剣に生きることを考えてきたと思う。
何か哲学のようなものまで昇華させているわけではないし、
言葉にしようとするとかなり無神経な発言になることもある。

でも時々、その優しくはない言葉をわかろうとしてくれる人もいる。
少し冷静に考えたらそうかもしれないと思ってくれる。

そんなめったに人から悩みを打ち明けられることのない僕が、
そういう人が何に悩んでいるのか、
どうしたらそのループから抜け出せるのか考えたものを文字にした。

他人の気持ちを考える前に

僕は他人の気持ちを理解しようと思ったことはない。
そういうと冷たい人間のように思われるだろう。

でも、他人の気持ちを理解することが素晴らしいと思われてる。
僕はそっちのほうがおかしいと思う。

他人の気持ちを考えないことは悪いというロジックはおかしいし、
それは不可能だし、そもそも必要がないと思ってる。

自分が他人の気持ちを考えずとも、
その人は十分幸せに生きることはできるものだ。

というか、自分と他人は明らかに違うからこそ、
人は誰かが勝手に他人の人生にのめり込むことなしに、
この社会をなめらかに動かしていくよりどころを生み出した。

そのよりどころというのが自由だ。人にはそれぞれ自由がある。
自由があるからこそ幸せに生きることができる。
これは誰でも納得するだろう。

いきなり突拍子もないことを言うが、
例えば、自分がその人を殴りたい思うという自由はある。
でも、その人は殴られたいと思ってないだろうから、
その人を殴るという自由は制限されて当然だろう。

ここまでも納得できると思う。

実際、犯罪と呼ばれるもののはそういう性質のもので、
自分の利益と他人の利益が相反するために罪と罰を抑止力とするものだ。

それでは、他人の自由と調整が必要ならどうするか?
そのために必要なことが対話である。
他人と対話することによりはじめて、
自分の自由と他人の自由を調整することが可能である。

まとめると、自分には自由がある。
しかし、その人が他人の自由を侵害しない限りにおいて、
その人の自由を尊重するということだ。

ここで気づいてほしいことは、
他人の気持ちを理解するということは求められていないということだ。
その人の自由を尊重することがその人を希望に満ちた人生にする。
ただそれだけの話だということだ。

巷で人間関係に悩んでいる人の多くは気持ちを理解しようとする。
それは絶望的に無理だし、その人を尊重することに全くならない。

百歩譲ってそんなことは親でもある程度制限されるべきなのに、
それを関係ない他人にしようとするのは驕りだ。

意思がすべての源

人を尊重することに人の気持ちを考える必要はないことを確認した。
それではその自由を行使するにはどういったことが必要だろう。

まず、自由を行使するには何らかの行動が必要になる。
行動する前には選択する必要がある。
選択するためには判断基準をもつ必要がある。

究極的にはその人の判断基準(ここでは意思と呼ぼう)がコアになる。
その人の価値基準が意思として自分の中に思い浮かぶ。そこが始まりだ。

テーゼ:人は意思を持つ必要がある。

後々の選択と行動の判断基準になるものだから大切しないといけない。
どういう気持ちで生きるのか、
自分の幸せと世の中をどう折り合わせるのかを決めるときの基準だからだ。

意思から生まれる選択肢は無限

その意志からは複数の選択肢が浮かんでくるかもしれない。

私立にいくか、公立に行くかとか、
いちごの甘さにするか、アイスの甘さにするかとか、
卓球にするか、陸上にするか、はたまたテニスにするかとか。

その人それぞれに意思があってそれは無限の可能性をもっている。
しかし、物理的に有限なこの世界では何かしら制限がある。

1日は24時間だし、部活は複数の部には基本的にには入れないだろう。
そういったいろいろな制約から自分の選択を絞り込む必要が出てくる。

もちろん、人によってはそのすべてを手に入れることも可能だ。
しかし、それは自分ができることを決して約束しない。

テーゼ:人は選択する必要がある。

もちろん、この選択においては前の判断基準に基づいて選ばれる。

選択は行動を通して現実化する

最後に自分が選択することで何かを得られる。

いちごジャムを選択することでいちごジャムを得られる。
結婚を選択することで婚姻関係を得られる。

当たり前のことを言っているようだけれども、
実際に自分が選択しているということを考えてない人は多い。

テーゼ:人は行動することで手に入れる

選択したという選択肢を実際に行動することで手に入れるのだ。

いちごジャムを選択したけれど、マーマレードにするとか、
結婚を選択したけれど、独身でいるとか、そういうことはない。

自分の意志で選択したものは、最終的に選択肢は行動することで実現する。

だから、いちごジャムを選択したらいちごジャムを購入する。
結婚を選択したら結婚届を提出する。それは当然の結果である。

人が不幸に陥るエラーの原因

さて、悩みを抱える人はこの3ステップのどこかで躓いている。

まず、意思がないとどうなるかというと選択することができない。

選択肢をイメージすることができないから、
その先の行動まで他人の言いなりになる。

これでは当然にあやつり人形と化してしまう。

黒人奴隷は文字が読める必要がないと考えたアメリカ人のように、
それを他人が教育等を通して意図的に奪ってしまうこともできる。

親が良かれと思って子供の意思を奪うこともある。

次に、選択するときに自分が選択していない。

本当はマーマレードがほしいのにいちごジャムが手元にあるとか、
本当は独り身が良いのに結婚しているとかそういうことになる。

その現状があまりにも辛いから死にたくなったりする。
それは、他人から強要されていなくても、社会の無言の圧力だったりする。

一見悩んでない人もほとんどはこのステップのどこかで躓いている。
いわゆる愚痴はストレスを吐き出したりする有効な対処法である。

でも、なぜそういうことになるのかというと、
自分の意思を認識する前に人の気持ちのことを考えてしまったからだ。

いちごジャムを買ったのは子供が好きだからだとか、
結婚したのは安定した生活がしたいからとか言うようなことである。

そのほうが丸く収まるから、そのほうが格好がつくから、
アイツを見返してやりたい、嫌われたくない。

そこには自由の尊重という考えのひとかけらもない。
対話によって自分の自由を行使することもせずに、
当然他人の自由を認めるということもできずにいる。

これが、僕が悩みを聞いている中で諸悪の根源にあると気づいたことだ。

修正できない選択からは何も得られない

「そうか、意思・選択・行動を順番に意識することで、
自分はより幸せに生きることができるんだ。」

殆どの場合そうだと言えるし、それが主張である。
しかし、一つだけその選択と行動に移す前に確認してほしいことがある。

だれしも自分が良い方に向かいたい思ってその選択をするのだから、
その結果が自分の思い通りではなかったのなら、修正できるべきだ。

修正できないその選択をしてはならない。

自分の自由を行使したとき(行動したとき)に、
必ずしも良い結果が付いてくるとは限らない。
それは、自分だけで決められることではないかもしれないのだ。

そんなときにとりかえしのつかない選択は考える必要がない。

借金して新装開店してもコロナが流行したらお店に来てくれる人は減るし、
自分が3浪して勉強しても東大には合格できないかもしれない。

それでもまだこれらの選択が良いといえるのは、
倒産しても不合格でも次の一手を打つことができるからだ。
その意味ではこの選択は(許されるなら)アリだ!

テーゼ:修正できない選択からは何も得られない

つまり、ぶどうジュースを選択してぶどうジュースを得られるなら、
美味しくなかったとしても次回は選択しないことができる。

トランプ大統領が就任したらどうなったかはいつかわかる。
次の選挙でどうするかは選択することができる。

しかし、死については再選択の余地がない。

死にたいから自殺を選択するというのが肯定できないのは、
選択の結果がどうだったかを踏まえて、次の選択ができないためである。

僕の意思として死なないでほしいという思いは対話により伝えられるが、
それ以上に自殺が肯定できないのは、そのいい方向に自由を行使した結果、
それを次に繋げることができなくなってしまうからだ。

こうした選択は死以外には存在しないだろう。
絶望の淵に立っていたとしても殆どの場合は再び選択することができる。

もやもやしてるなら意思・選択・行動の意識から始めよう

結局の所、選択することで人生が悪くならないと言えるのは、
たとえ失敗してもそれは自分の学びになるからだ。

暴力などの犯罪的行為から逃れるのは最善の選択である。
身体的に拘束されていない限り、意思を奪われてない限りにおいて、
逃げることはできる。おかしいと思ったらそれはおかしい。

少なくとも第三者に客観的な意見を求めよう。

そして、自分の意志で選択していないという人。
自分の自由を行使せず、かつ人の自由を奪うような生き方はやめよう。
自分を殺すのも究極的には何も得られないということを認識しよう。

オレはできるんだ!と思うのならやってみればいい。
できなくてもそれが分かっただけで自分のことを一つ知れたのである。
しかし、多くの人は結局口だけである。
怖くて選択肢にすらしないという人もたくさんいる。

その結果として幸せならばこんな文章は読んでないだろう。
自分が苦しいと感じている、人がにくいと感じているならば、
直ちに自分の意思と選択と行動を見直して、決断しよう。

そのための方法を教えることはできない。
すべてはそれぞれの人が各々答えをもっている。
どう生きるかはあなた次第である。

僕は真剣に考えた結果そう考えているけれど、
その人がどう選択するのかは究極その人の自由である。
ただし、他人の自由を侵害しない限りにおいて。

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