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心の開く場所|ショートショート

「美濃さん」

 給湯室で声をかけられて、美濃香乃子はぎくりと肩を揺らした。バレたのだろうか。

 声をかけてきたのは、香乃子の所属する広報課とは険悪になりがちな、総務課の片桐あゆ子だった。

「購入申請のあったソフトなんだけど」

 淡々とした口調に安堵を覚える。なんだ、仕事の話か。安心して背筋を伸ばして返答する。仕事の話であれば、香乃子は自信を持って判断し断言できる。自分の言葉に価値があるのだと、自分の行為に価値があるのだと、そう思うことができる。


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「壁作ってへん?」

 だらだらとお酒を飲みながら、亜紀はまっすぐに香乃子の目を見て言った。

「思い切ってへんのは香乃子やん。迷ってんのも。やから遠慮してる。お互い遠慮し合ってるようにしか見えへん」

 ぽんぽんぽん、と投げうたれる言葉たち。香乃子はぐっと言葉に詰まり、ごまかすようにして缶ビールを一口含んだ。亜紀を家に招待して、彼が用事で出て行った、その間のことだった。

 心の中で、言葉が渦を巻く。
――何をしても申し訳ないが勝つから、わたしなんかと一緒にいて大丈夫なのかなって思うから、わたしのどこに価値を感じてくれているのか分からないから。
 卑屈にねじまがった言葉たち。きっとその中に含まれている心は、僅かばかりだ。

「他の人に遠慮してないの見せてるくせに、自分には遠慮されんねんで? いやちゃう?」

 亜紀の言葉は正しい。それはいやだろう、自分がされたらいやだもの。香乃子は心の底から同意する。同意はしても、他の人には安心して取れるような傲慢な態度も不遜な態度も、彼には取れない。だって彼は特別なのだから、他の人とは扱いが違って当然でしょう? 他の人はわたしのありのままを受け入れてから関係を作ってくれるけれど、彼とは関係が先だからありのままを出すのはまだでしょう?

「相手の気持ちも考えや」

 香乃子は頷いた。理解はする。そうではあっても自衛が勝ってしまう自分はひとまず置いておいて。

 申し訳ないという感情は、防衛であり逃げであり免罪符だ。


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 あの日から、なんとなく彼と気まずい空気が続いている。君は急ぎすぎなのよ、と香乃子は言われた。だから誰とも続かないのだ、という本音が言外に含まれているのを感じ取って、香乃子は不貞腐れた。

 相手が正しいことは分かっている。素直に受け取れるかは別の話だ。自分の世界での当然が他者にとっては違うと知っても、当然を変えることができないのが人格だ。

 もう、終わったほうがいいのかと香乃子は思っている。結婚を前提に一緒に暮らしているけれど、自分自身の成熟度合いが、結婚に達しているとは到底思えない。ならばいつ達するのかと言われると、ここで逃げている限りは一生不可能なのだろう。彼から求め続けてもらえる自信も信用も持てない。歯車が嚙み合わず、かといって明確にずれてもいない感覚に、香乃子はもどかしさを覚える。いっそどちらかに振り切ってくれと思う。振り切ったら振り切ったで、もうちょっと中間に寄ってくれよと思うのだろうけれど。

 香乃子は自分のことについては、いつも間違える。壊す方に壊す方に行こうとする。自己中心的な香乃子は、相手を慮る振りをしていつだって勝手で独りよがりだ。一緒にいたい相手であればあるほど、心を縛る縄はきつく歪な形でなにかが飛びだす。


 だからあの日、香乃子は泣いたのだ。自分を信じることのできる空間で、自分に価値があると思える場所で、ひとりで。


+++


「広報課はものを買いすぎているという指摘があるのだけれど」

 片桐あゆ子の声は淡々としていて、香乃子の頭に届きやすい。香乃子もまた、淡々と答える。説明、主張、どちらの言葉で表現しても構わない香乃子のやり方は、敵を作ることもあるのだろう。間違っていることもあるのだろうけれど、それでも価値はあるのだ。つまり香乃子には存在価値がある。


 価値。存在意義。そんなものを求めて、香乃子は仕事をしている。それがなくなるときはきっと、香乃子が成熟したときなのだろうと思いながら。




【完】

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