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【ものがたり】ショートショート

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短い物語を。温かく見守ってください。修行中です。
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#創作

あちらとこちら、夢のまた夢 #月刊撚り糸

 僕から見て、彼女はいつも『あちらに行ってしまいそう』な人だった。あちらってどこかだなんて訊かれても答えられない。とにかく、ここじゃない、もう二度と会えない、そんなところだ。  はじめて彼女に会ったのは、僕が新卒で入った会社を燃え尽き症候群で辞めたばかりのころだった。もうなにもやる気がしなくて、なにもできる気がしなくて、残業のおかげで貯まる一方だったお金を頼りにひたすらぶらぶらしていた。食べることにだけはやる気を見出せたから、その日も僕はずっと気になっていたお店に出向いた。

世界|ショートショート

<和那の場合>   息の詰まったような感覚があって、和那はくいと顎をあげた。昨夜の行いやそれより前の会社での会話を思い出して、肺がいっぱいになる。  自分の中に、他人がたくさんいるのが苦しい、と思う。  それは彼の言葉や行いであるし、職場の先輩の態度や話であるし、友人から定期的にくる現状報告の連絡であるし、そういう他人の持つ気配のことだ。  普段は——、そう、普段は特別なにも思ったりはしない。淡々と、それなりに面白がって楽しみつつ、日常を超えていく。  ただ、どうしてもそ

隣の異世界#ショートショート #月刊撚り糸

 異世界、という言葉がある。自分が今住んでいるこの世界とは別の世界のことだ。最近は、異世界転生、なんてのも流行っている。そういうことを、城戸小鳥遊(きどたかなし)は一般常識として知ってはいた。けれどもその異世界とやらがこんな近くに存在していることは、知らなかった。 **** 「キャベツをトマトで煮込むの? え、なにそれ、なにができるの」  藍田景子(あいだけいこ)の言葉に、小鳥遊は目を剥いた。景子の顔をまじまじと見つめるが、彼女の顔に冗談やからかいは見当たらない。あくま

心の開く場所|ショートショート

「美濃さん」  給湯室で声をかけられて、美濃香乃子はぎくりと肩を揺らした。バレたのだろうか。  声をかけてきたのは、香乃子の所属する広報課とは険悪になりがちな、総務課の片桐あゆ子だった。 「購入申請のあったソフトなんだけど」  淡々とした口調に安堵を覚える。なんだ、仕事の話か。安心して背筋を伸ばして返答する。仕事の話であれば、香乃子は自信を持って判断し断言できる。自分の言葉に価値があるのだと、自分の行為に価値があるのだと、そう思うことができる。 +++ 「壁作って

まどろみサンドイッチ|ショートショート

 エレインは、短期留学で我が家にやって来た女の子だ。彼女がやってくる前に、えれいん、という名前の響きだけで想像していたのとは違って、金髪でもなければそばかすだらけでもなかった。それでもわたしよりよほど高い身長で上の方から発声される英語は、わたしに非日常を連れてくるに充分だった。 「エレイン? 何してるの?」  ある日曜日の朝、キッチンの物音に気付いて声をかけたのはわたしだった。システムキッチンをがちゃがちゃといじっていたエレインは機敏な動きでぱっと顔を上げて、悪びれずに言

僕の過ち|ショートショート

 あの日の空気を、まだ鮮明に覚えている。新しい部屋の匂い。カーテンを付けていない窓から入る夏の風。段ボールの重み。  たぶん、僕は間違った。浮き立った心でいた僕は、浮いているのが自分ひとりで、君はきちんと地に足を着けていたことに気づかなかった。 ***    運び込んだ、合計21箱もの段ボール。それらを開封する気力もないままに、僕たちはしばしフローリングの床にへたり込んでいた。真っ青で眩しい空が広い窓から覗く。額からは汗が流れ、汚れてもいいやと選んで着ていたTシャツの首元

春の陽射しと櫻の花と #月刊撚り糸

 うららかな春の陽射しが降り注ぐ。ぽかぽかとした陽気があたりを満たしているけれど、ひとたび陽が陰れば打って変わった涼しさに包まれるのだろう。  そんな、あやふやであいまいでつかみどころのない季節。 *** 「分かった。別にいいよ」  口に出した言葉とその温度に、茉奈は自分でいやというほどのデジャヴュを覚えた。ベツニイイヨ。なんて平たくて無意味な言葉。  それなのに、目の前に座る男はほっと表情を緩ませる。つい5分前までは愛おしく、傍にあってほしいと望んでいた目尻の皺。  男

タワマンパワマン緩慢散漫 side.K|ショートショート

――やっぱタワーマンションに住んでよかった。  と、30歳になったばかりの和希は思う。18歳くらいの頃から、ずっとタワーマンションに憧れてきた。タワーマンションに外車、厳つい腕時計。今も憧れるそれらは既にほとんど手中にあって、惚れ惚れする。  まるで夢の国のように、きらきらと輝きながら波打つ光の海。なぜか懐かしさを誘う光景。じっとそれを見つめていると、まるで昔からそれを見ているんじゃないかという錯覚を覚える。次いで高揚感。得たいものを得たことによる充足感すらなぜか懐かしいよ

タワマンパワマン緩慢散漫 side.E|ショートショート

――タワーマンションなんて、どこがいいんかさっぱり分からん。  と、29歳になった榮子は思う。23歳の頃は、きっともっと歳がいけば良さがわかるよ、なんて言われていたけれど未だに分からないままだ。  まるで遠い世界か幻のように、現実感も乏しく眼下で波打つ光の海。戻りたくても戻れない家のように、どこか郷愁を誘う光景。じっとそれを見つめていると、足元が揺れるような感覚を得る。次いで軽い眩暈。その不安定さすら懐かしくて、酔うように身を任せた。 「何見てんの」  掛けられた声に、

とある日記の抜粋|ショートショート

1月30日 最近どうも肩凝りがひどい。知人の理学療法士に相談するも、肩はそんなに凝っていないと言われた。そんなはずはない。こんなにつらいのだから。けれどプロがそう言うということはそうなのだろう。身体に触れられて、ひさしぶりの感覚にときめいた。異性に触れられるなんて、別れて以来だ。 1月31日 頭痛が止まらない。常備しているロキソニンを2時間ほど前に飲んだのだが、それでも一向に痛みが消えない。毎月のように飲むものだから身体が慣れてしまったのだろうか。なんだか心臓まで痛くなって

とある男女の場合|ショートショート #月刊撚り糸

レイカの場合 人生泣きたくなることなんてそうそうない。基本スタンスは開き直りと諦め。別に悲観論者じゃないけどそうやって生きてきた。映画で感動して泣くことはあっても、自分の身に降りかかる出来事って、泣いても仕方ないじゃん。泣くくらいならなんとかする術を考えるし、それができないなら開き直る。  そう考える私は、どうやら強い女に分類されるらしい。自分ではそう思わないんだけど、そう言われて生きてきた。 +++ 「レイカはさー、ゼロの人間なんだよ」 「え? ゼロ?」  急にわけわ

死にたがり屋のひとりごと|ショートショート

――ねえ。わたしが死んだら、この世界ってどうなるのかな?  彼女がそんな質問をしてきたのは、真夏らしい暑さの昼間のことだった。ぼくは畳の上に転がって、縁側から入ってくる、草の匂いがする風を感じていた。日光が燦燦と降り注ぐ庭を眺めながらだべってるぼくらは、なんとも言えず夏らしかった。 ――世界の話? さあ、なにごともなく続いていくんじゃない?  ぼくは暑さでぼーっとなりながら答えた。だからそのとき、彼女がどんな顔をしていたかは知らない。 ――おかしくない? だってこの世

満たすモノ|ショートショート

 ぺろり、と上唇を舐めた。生クリームの味。昔あんなに大好きだったのに、今ではちょっと重いなと思う味。 「でね、どう思う? もうほとんど1年もしてないの」  目の前に座る彼女は、あたしと同じものを飲んでるはずなのに生クリームが上唇に付かない。器用だからなのだろうか。 「1年かー。それは長いね」  かく言うあたしは、ほとんど1年恋人もいない。彼女が左手で飲み物を手に取った。薬指の指輪がきらりと光る。自慢のダイヤモンド。 「こども欲しいのに、こんなんじゃ困る」  くいっと寄せられた

無花果の愛|短編小説

 かぐわしい食べものの香りと、人々のさざめきに溢れた空間。温かみのある木でできたテーブルと椅子。男が初対面の場に選んだ店はまさに、ムードがある、と言うに相応しいところであった。その男がお手洗いに立ったタイミングで、溜まった通知を消化しようと千晃(ちあき)は自身のスマホを手に取る。顔認証で画面を開き、その瞬間目に飛び込んだ文字に思わずえ、と声を漏らした。 ――今日なにしてるーん?  少し考え、一旦未読のまま放置して他のメッセージに返信を送ることにする。その作業を終えてちらり