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春の陽射しと櫻の花と #月刊撚り糸

 うららかな春の陽射しが降り注ぐ。ぽかぽかとした陽気があたりを満たしているけれど、ひとたび陽が陰れば打って変わった涼しさに包まれるのだろう。
 そんな、あやふやであいまいでつかみどころのない季節。

***

「分かった。別にいいよ」
 口に出した言葉とその温度に、茉奈は自分でいやというほどのデジャヴュを覚えた。ベツニイイヨ。なんて平たくて無意味な言葉。
 それなのに、目の前に座る男はほっと表情を緩ませる。つい5分前までは愛おしく、傍にあってほしいと望んでいた目尻の皺。
 男は緩んだ表情そのままに、そそくさと財布を取り出し、席から腰を浮かせる。
「ここは俺が出すよ。ほんとにごめん。今までありがとう」
 その言葉と態度を受け、自分の唇の両端が上がり、目尻が下がるのを自覚した。
「うん。ありがとう。元気でね」
 テーブルに置かれた2枚の1000円札。お釣りが出ることは容易に予想できたけれど、そこには触れない。
 安堵を涼やかな風のように身に纏って、すんなりとこの場を去る男の後ろ姿を見送ってから、ふう、と短いため息を吐く。


 茉奈がこうやって男の後ろ姿を見送るのは、通算何度目になるのだろうか。定番の文句はいくつかある。
「やっぱり違った」
「他に好きな子ができた」
「浮気した」
「元カノとヨリを戻すことになった」
 それらの台詞を言われる度、判で押したように、ワカッタベツニイイヨ、を繰り返してきた。平坦な声の許しを聞いて、それを本当に信じることができるのか、茉奈には分からない。茉奈が知っているのは、彼らは皆安堵して、未練なく彼女のもとを去るということ。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。


 茉奈は鞄に入れていたスマホを手に取り、電話をかけた。ツーコール、スリーコール、カチャン。
「はーい」
 だらりとした声で電話に出た相手に告げる。
「未琴。わたし、またフラれたよ」
 一拍置いた電話の向こうで、相手はからからと笑った。
「またあ? 今度はなんで?」
 茉奈はずっと飲まずにいた珈琲を口に含んだ。砂糖もミルクも入っていない苦味が口に広がる。
「浮気、してたんだって。で、その相手を結婚することにしたんだって」
  あっはーっ、と軽い笑い声が聞こえて、茉奈も口許が緩んで言葉を続けた。
「いやもう、またかよって感じなんですけど」
 茉奈の台詞に、向こう側で未琴はさらに笑う。
「茉奈見る目なさすぎ! ほんで? 修羅場った?」
「んーん。謝られたけど、べつにいいよって言って、それで終わり」
「なんで」
 間髪入れずの突っ込みに、茉奈はしばし逡巡した。
「うーん……。なんかもういっかーって。浮気されたのだって、わたしのせいもあるんだろうし、向こうが浮気相手を選ぶならしゃーない」
 ふーん、と相槌が聞こえた。
「引き留めようと思わなかった?」
「思わなかったなあ。そうきたかーって感じで、わたしがなんか言って、どうなることとも思えなかったし」
 ふーん、とまた相槌が聞こえた。
「まあ、それが茉奈の本音なら、それでいいんだけど」
 放たれた未琴の言葉に胸を突かれたような気がして、茉奈は一瞬息を止めた。
 それは、茉奈がずっと己の内に仕舞っていた言葉だった。
――それがあなたの本音なら、別にいいよ。
 だって仕方ないじゃないか、と思う。本音で、決めたことならば。それを覆すだけの情熱も、覚悟も、茉奈にはないのだから。
「ただ、いっつもそういうパターンだからさ。がんばってもいいんじゃないかと思うんだけど」
 続いた未琴の言葉に、うん、と相槌を打つ。
「しんどいのも分かるけどさ」
 彼女の声は優しい。うん、と再び相槌を打つ。
「言ってみれば、変わることもあるかもしれないし」
 再三、うん、と頷く。
「しんどいけどね。相手に向き合うのも、がんばるのも」
 いつの間にか、珈琲はもうすっかり冷めている。



 茉奈はしんどい。自分の言葉によって変わった結果に、責任をもつことが。縋りついて、乞うて、応えられたその結果を裏切ることが。
 心変わりされる度に、落胆と哀惜と安堵がないまぜになる。
――この人こそは、と思った人にも裏切られる落胆。
――もうこの人とは一緒にいられないのだ、という哀惜。
――この人への気持ちに、もう責任を持たなくていいのだという安堵。
 最後の誠意で、茉奈はいつだって思っている。
――それがあなたの本音なら、わたしはあなたに従う。
――ほかに何も言えなくて、ごめんなさい。
――引き留めようと頑張るだけの決意も、覚悟も、自信もないわたしで。
 表に出さない誠意は、いつだって安全圏だ。



「未琴」
 呼びかけに、ん? と返事がある。だらだらと縁を続けてくれるこの友人の存在が貴くて、茉奈は胸が詰まった。
「次はさ、相手に縋れるような恋愛するわ」
「いや、それはそれでおかしいやろ」
 またも間髪入れずの突っ込みに、茉奈は笑った。
「まあまあ。縋れるくらいのわたしになるわ」
 はあ、と呆れたような溜息が聞こえた。
「まあ、茉奈が本音でそうしたいならいいけど」


***


 櫻が舞う季節。陽気と冷気の共存する、あやふやであいまいでつかみどころのない季節。
 そんな空気を胸に抱えて、声に乗せる人たちがいる。
 覚悟も確信も、櫻吹雪の中に埋もれて、時折顔をのぞかせる。
 移ろい変わりゆくものを愛すのが人間であるからこそ、季節は愛され愛でられる。
 
 



#月刊撚り糸
こちらは先月のまとめです。


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