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子どもたちで流行っているゲームが楽しくなかったって話

こんにちは、ヨウです。


今回は、多くの大人に共通する「悩み」のような現実と向き合ってみました。


子どもに共感できない自分がいた

小学校で担任をしていた時、子どもたちの中で「荒野行動」「フォートナイト」が流行っていることを知りました。子どもたちの中でブームになっているとのことだったので、「子どものやっていることをやってみよう!」と早速ダウンロードして遊んでみました。

すると、どうでしょう。全く面白くもなんともないのです。

操作が複雑で、タッチパネルで遊ぶゲームに体がついていかず、誰かも分からない対戦相手にカモられて、あっという間に終了。30分とせずに、アプリをアンインストールしました。


翌日、子どもたちに「ゲームをやってみた感想」を伝えました。そういう時は、このアイテム使ったらいいですよーとか、操作のコツはこうですよーとか、教えてもらうんですけど、真剣に聞くんですけど、やっぱり入ってこない。

「心は少年のままだ!」と思っていた私でしたが、子どもの感覚に共感できない自分がいたことに驚きました。


私は、親や教師から「ゲームの何が楽しいのか分からん。私たちが子どもの頃はそんなもので遊んでなかった。ゲームなんてせずに、外で元気に遊べ。」みたいに説教じみた事ばかり聞かされて育ちました。自分がそうならないように、子どもの感覚に近づこうと努めていたのにも関わらず、結局子どもの感覚に近寄ることはできなかったのです。

自分の頭の固さを自覚した出来事でした。



大人と子どもは、育った「時代」が違う

私は、任天堂64、ゲームキューブ、プレステ2みたいに、コントローラーをガチャガチャして、みんなで一つの画面を見て遊ぶゲームをして育ちました。リアルで集まった後に、友達とヤイヤイ言いながら遊ぶ時代でした。

今の子どもたちは、基本的にネット回線を使って交流しています。家に帰って、自分の画面を見ながら、友達とオンラインでゲームを楽しみます。そういう時代なのです。

私の親の世代は、そもそもゲームをして育っていません。大人から説教じみたことを言われ続けて「はぁ?」と思っていた私は、その説教じみたことを言ってしまう立場になろうとしているわけです。


そもそも、私たちは幼いころに与えられた環境が違うのです。子どもの脳みそは柔軟ですから、その時代に合った成長を遂げます。そう考えれば、共感できなくなるのは、何ら不自然なことではありません。

時代が変われば、その時の流行や「良し」とされることも変わってきます。子どもの柔軟な脳みそは、時代をどんどん吸収してそれを当たり前にします。大人になるにつれ、吸収することができる量が減り、子ども時代に培った「当たり前」から解放されなくなってきているのです。


つまり、生きてきた時代が変われば価値観も変わる、年を取れば価値観を借ることが難しくなっていく、ということなのです。



大人同士でも、共感できないことも多い

大人になり、時代に合わせて考え方を変えることができる大人がいる一方で、それができない大人も大勢います。

今回のようにゲームの話でいえば、今やゲームをすることが仕事になる人もいて、それで生活している人もいます。「eスポーツ」として、プロゲーマーが「スポーツ選手」として活躍している時代です。

これに対して「ゲームはスポーツじゃない」とか「瞬発力や判断力を求められるスポーツだ」とか言って、意見が割れることがあります。


別に意見が割れること自体は問題ないと思います。それはそれぞれで考え方を持っていることなので、この是非について正解はありません。ただ、大人同士でも共感できない部分があるのです。大人同士で共感できないのに、時代も生活様式も違う子どもと共感しようなんて、結構な難題だと思いませんか?



「なるほどね。」と、とりあえず言ってみよう

以上のように、私たち大人は誰しも、現代の子どもたちに共感できない部分を、心のどこかに持っています。

しかし、それ自体は悪いことではないのです。育った環境や時代が違えば、価値観は違うものです。「共感できないこと」は悪ではなく、「しょうがないこと」なのかもしれません。


そんな私たちにできることは、「共感」ではなくて「理解」なのかもしれません。当然、共感した方が仲良くなれるし、心が通じ合うのだと思います。でも、個人によって価値観が違い、ましてや生きている時代も違う人たち全員と「共感」することは無理があります。


そこで、子どもたちの言動に「なるほどね。君はこのゲームの、こういうところが面白いと思っているんだね。」と理解を示してみたらいいのではないかと思います。

共感して無理に合わせる必要も、否定して大人に合わせさせる必要もありません。あくまで、「なるほどね。」と言って、認めてあげることが大切なのです。分かち合えなくても、お互いに理解しあうことを教えるのには、これで十分だと思います。



私は、子どもたちがハマっている「荒野行動」「フォートナイト」について

「やってみたけど、僕は面白いと思わなかったな。けど、君たちは面白いと思っているんだね。」

と伝えました。その後、子どもには変化はありません。好かれも嫌われもしませんし、恐れられることも舐められることもありませんでした。この一件で授業中にふざけられたり、宿題をサボったりしてきたわけでもありません。強いて言えば、私に対して「ゲームの話をしなくなった」程度のことでした。

これでいいんだ、と思いました。



終わりに ~子どもに限った話ではない~

私たちは、一個人として、様々な考え方を持っています。子どもであれ大人であれ、生まれた場所や環境、関わった人など、個人の考えを作る要素は多すぎて数えきれないほどです。

当然、分かり合えない人も出てきます。自分を理解してくれない人も出てきます。でも、それはしょうがないこと。それが人間という生き物の特性であり、人間の面白さだと思います。

そこで、相手を否定したり、無理に合わせたりする必要はありません。理解を示すことが先決です。正しさも間違いも、見る人によって変わるのです。


そういう「理解を示す」ということが、地球上の誰しもができるようになれば、平和な世の中になるのではないかな、と思います。


ちょっと規模が大きくなりましたね。笑 

みんなで、お互いを理解できるように、たくさん話をしていきましょう。



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