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いつかまたコービーブライアントに会えるその日まで

”Hey! Kobe Bryant died!”

それはサウス・シェトランド諸島のキングジョージ島からクルーズ船に乗り込んで一服しているときだった。いつもは屈託のない笑顔を振りまくベトナム系アメリカ人のシンディが顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。抑えられない感情のやり場がない様子で、僕の反応を待っている。

何かのジョークだろうと思った。コービーはつい昨日、コートサイドで娘とレイカーズ戦を観戦していたはずだ。僕はそれをテレビで見ていた。嘘だろう?僕は船のWi-Fiに接続してTwitterを覗いてみた。

「無理」「信じられない」「フェイクだよね?」「エイプリルフールじゃないの…?」

絶望が飛び交うタイムラインを見ても、僕は何が起きているのか全く理解できなかった。「コービーが死んだ?あのコービーが?死んだ?」頭が真っ白になった。CNNやESPNの速報を読み漁って辛うじて頭の中に入って来たのは、「ヘリコプターの墜落事故でコービーと同乗していた家族が死んだ」ということだけ。僕はソファから立ちあがることすらできなかった。

2020年1月当時の記録より



僕の人生の師は、2020年1月26日にヘリコプター事故で死んだ。僕はちょうど新しい職に就く前のモラトリアムを利用して、南極へ向かっているところだった。人生をかけた旅に出て夢を叶えること、その素晴らしさを教えてくれたコービーにその想いを伝えるべく、スーツケースに彼のユニフォームを詰め込んでいたあの日の高揚感は今でも忘れられない。南極でコービーのユニフォームを掲げて、彼に想いを伝えるんだと意気込んでいた。

訃報を聞いたのは、まさにその夢が叶わんとする前日のことだった。子供のころから20年以上、彼の勇姿を目に焼き付けながら育った僕にとって、コービーの死はまともに受け入れることができないあまりにも残酷な現実だった。



僕は子供のころから、大した能力も才能もないつまらない人間だった。成績は中の下、運動神経も微妙、ヒエラルキーの真ん中のポジションで大してモテもせず、要領がとにかく悪くて、人の二倍くらい努力してやっと人並みの人生を送れるくらいだった。

そんな自分に、コービーの存在は刺激的だった。1999年のNBAファイナルで、まだ4年目の若手ながらコートを支配する彼の姿は、中学生だった僕にとってはヒーローそのものだった。「自分にこんな才能があれば、違った人生だったのになあ」、子供心ながらそう感じつつ、自分にはないものを持っている彼に憧れていた。

しかし、僕はその10年後、それが全くの思い違いだと知ることになる。2009年のチャンピオンシップに再び登場した彼からは、殺気とも感じられる凄まじい気迫が画面越しからも伝わってきた。大学生になっていた僕は、ようやく全てを悟った。才能なんてものはなかった。ただコービーは、想像を絶するほどの努力を続けていただけだった。僕がぼんやり学生時代を送っている間、ないものねだりをしてやらない理由を探している間、彼は極限まで努力し続けていたのだった。どれだけ頑張ったらこんな凄まじい迫力が出るんだろうか。どれだけ努力しても報われない絶望を超えてなお進み続けるコービーの姿に、僕は震えが止まらなかった。自分に足りなかったのは、このメンタリティだったことに気付いた瞬間だった。コービーが僕に教えてくれたことは、バスケットボールの素晴らしさやスリリングなプレーの興奮だけじゃなくて、生き方そのものだった。

それから僕は、コービーが引退してからも、彼から学んだメンタリティに大きな影響を受け続けてた。どんな逆境でも絶対に諦めずに乗り越えるその力を自分のモノにすべく、目の前のことに全力で挑戦する生き方にシフトしていった。僕みたいな凡人でも、生きていると壁にぶつかることはたくさんある。失恋をして身を引き裂かれるような思いをすることもあれば、社会の洗礼を受けて毎日人格否定されたこともあった。だけど、そんなときにいつも心の支えにしてたのは、コービーブライアントだった。彼のファンとして恥ずかしくないよう、彼のメンタリティに少しでも近づけるよう、そんな一心で日々を過ごしていた。

やがて僕の人生にも転機が訪れる。自分の信念に従って生きるべく、大好きだった東京でのキャリアを放棄して、家業へ帰ることにしたのだ。そしてその隙間のモラトリアムを利用して、長年の夢だった世界の果てまで旅することを決めた。これまで積み上げた努力の結晶とも言えるお金と時間を全て投資して、正に人生を賭けた挑戦をしたわけだ。

そんな時に、ふと思いついたのが、世界の果てでコービーのユニフォームを掲げて写真を撮り、彼にシェアすることだった。

「コービーのおかげでここまで来られたんだよ。ありがとう。」

返事がなくてもいい。たった一言彼にお礼をって伝えられたらって淡い期待を胸に、僕は南極へ向かっていた。



僕が南極でユニフォームを掲げた写真は、彼に届くことはなかった。そして、これからも一生届くことはない。

今だに悔やんでも悔やみきれない。たった1日遅かっただけで、コービーにメッセージを届けるチャンスは一生失われてしまったのだ。今後の人生で自分がどれだけ頑張ってもコービーには二度と会えない、遠くから姿を見ることすら叶わない。想いを届けることもできない。その現実が辛すぎて、僕は彼の死とまともに向き合わないまま三年間を過ごしてきてしまった。

彼が亡くなってからも時間は進み、僕は父親の会社の事業承継をすることになった。他人の人生と向き合うという重圧、事業のすべてにコミットするという責任、凡人の僕には到底耐えきれないようなプレッシャーを乗り越えられてきたのは、彼の死から逃げるのに必死だったからかもしれない。いつだって諦めずに全力で生きていれば、あのメンタリティを追いかけていれば、いつか彼に会える。そうやって誤魔化して、自分の行動を正当化して、そんな生き方をしてきたと思う。

だけど、今こうして振り返ってみると、今でも自分は亡くなった彼に支えられていたんだと気付いた。どれだけ辛いことがあろうと、その現実とまっすぐ向き合ってそれを乗り越えていくことが、彼から学んだメンタリティだったし、僕がそんな生き方を続ける限り、彼は僕の中で生き続けるんだろう。今この瞬間を大切にすること、大事な人にまっすぐに想いを伝えること、それが彼が最後に教えてくれたことだったんだと思う。

コービーが生きてた頃は、スーパースターもおじいさんになれば会えるハードルが下がるだろうから、60歳くらいになったら直接会いに行けるかな、なんて考えてた。いつか話す機会があったら「日本からずっと応援してたんだよ。コービーの勇姿にいつも元気付けられてたんだよ。ありがとう。」って伝えられたらいいなあって。その日を夢見て、日々一生懸命生きていこうと思っていた。そんな夢はもう叶わなくなってしまったんだけど。それでも今は前を向いて生きていこうと思う。僕が一人前の人間になるまで、何かを成し遂げるまで、そしていつかまた別の夢を叶えるまで、今まで以上にコービーのファンとして恥ずかしくないよう、毎日を精一杯生きていこう。凡人の僕ができるのは、日々を全力で生きて、世の中に価値をつくることを信じて、行動することだけだ。そして、それだけが僕にできる弔いであり、ファンとしての矜持だと信じている。

いつかコービーのところへ、自分の人生の報告に行こうと思う。ロサンゼルスにあるお墓まで。その時は絶対に、あの南極で掲げたユニフォームを着ていくんだ。「生涯ずっと、あなたのファンでした。いい人生だったよ。」って胸を張って報告しに行こう。

いつかまた、コービーブライアントに会えるその日まで。

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