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書籍『ダイエット幻想:やせること、愛されること』

磯野真穂 2019 ちくまプリマー文庫

ダイエットは幻想であると断罪する本ではない。
ダイエットという幻想に、いかに人が振り回されているか。
あるいは、人が幻想に我が身と生活を支配されるあまりに、世界と具体的に関わる方法を失う。
そんな事態を、ダイエットを例にして、解き明かす。

やせることと愛されることがいびつに絡み合ってしまったものが、摂食障害である。
著者が摂食障害について研究してきた集大成に位置づけられる本であり、深い理解を示す。
摂食障害で悩んでいる方や、摂食障害の治療にあたる方が読んで資することは間違いない。
摂食障害という疾患が、どういった文化背景に根差して症状として立ち現れてくるのか、治療者には必ず読んでほしい。
しかし、ダイエットというものは、日本人では当たり前に誰でもが口にする言葉であり、そこを切り口にして語られる文化についての本であるから、誰もが読んでみる甲斐があると思う。

著者は、この本は3つのパートから成っていると、終章で流れを要約している。私自身の言葉でまとめるよりも、これ以上にわかりやすい要約はないように思われるので、少し長くなるが引用したい。

ここまで私たちは、やせたいと思う気持ちは自分の外側からやってきて私たちの中に住み着いたものであり、その気持ちは承認欲求と分かちがたく結びついていること、ところが承認欲求に対し現代社会はあまりいい顔をせず、他人のことは気にせず、自分らしく生きている(ように見える)人を称賛すること、その結果、私たちは、承認欲求などなさそうな顔をしながら、一方でそれを満たすといった、矛盾したふるまいをせざるを得ないこと、この三つを第一章と第二章で共有しました。続く第三章から第五章では、女の子であることとやせたい気持ちの密接な関わりを示し、女の子でいようとすることが、女性同士の無益な争いと、終わることのない「やせ合戦」を生んでしまう危険性、そして、「選ばれる」女の子として生きようとするのではなく、大人の女性になる生き方を多くの人が選ぶことが「やせ合戦」を回避する処方薬になるだろうことを指摘しました。そして第六章から第八章においては、食べ物や身体を数字や栄養素といった概念に変換し、その知識に基づいて頭で食べようとすることで、刻々と変わりゆく世界に身体を織り込ませながら食べて生きるという、いのちを持つ生き物にとって必須の力が失われかねないことを警告しました。(pp.185-186)

私は、この1つめと2つめのパートからは「かわいいの呪い」を、3つめのパートからは「ふつうの呪い」を感じた。
かわいいの呪いとふつうの呪いの二つは、私自身の価値観や生き方にも影を落としているところはある。
自分なりに見つけたこの二つのキーワードの視点から、もう少し書いておきたいと思う。

1.かわいいの呪い

前半の第一章から五章は、可愛くあらねばならぬという呪いが、どれほど日本に行き渡り、強力に人を縛っているかを描く。
磯野さんは「『かわいいの呪い』の本質は、この言葉に女性が大人になることを妨げる力が潜むこと」(p.63)と指摘する。
「カワイイは正義」「カワイイは作れる」といった言葉で、可愛くあらねばならないと求められることはあまりにも日常的である。
少しでも愛される、好印象を持ってもらえるように、自分をプレゼンテーションすると思えば、それはそれで悪いものではないように感じていた。
ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるなら、やらない手はないと語る人も、身の回りにいた。
だから、この本を読むまで、それがよくあれかしのまじないであるばかりでなく、のろいの作用を有していることに気づいていなかった。

より小さく、より幼く、より弱々しく、より頼りなく、よりおばかな。
幼子のような無垢で無力で無邪気な存在であることで「愛される」存在であろうとする。
その戦略は、中年になっても「美魔女」などという表現で奨励されて、いつまで続けるべきなのか、不明である。
年齢相応であることが否定されて、年齢不相応が奨励されると、達成に多大なコストを必要とする。
そんな不自然を強行してしまうのは、「『かわいい』を捨てたら『愛されない』のではないかと不安になってしまう」(p.112)からだ。

その戦略はどこかでギブアップしないといけない。
もろもろのノイズが想像できるが、幼女からいきなり老女になるのではなく、その間に「おとな」になるイメージを持つ。
その年齢ごとの年齢相応である女性のイメージを育てること。かわいい以外の女性像のモデルを持つこと。(ここまで書いて、ぱっと思い浮かんだのは、『風の谷のナウシカ』…じゃなくて『天空の城ラピュタ』のドーラで、私の理想像のひとつである)
自分がいつまでも若作りをしている痛々しい中年女、選ばれないことに不満たらたらの中年女にならないために。なにもできないままで、もはや誰にも助けてもらえない、老女にならないために。
他人の視線から「選ばれる」ことをめぐる争いから離脱することが、かわいいの呪いからの解放になる。

自分自身の「女性」というジェンダーが呪いのように感じている人、感じたことがある人には、ぜひとも読んでもらいたい文章である。
と同時に、女性に可愛さを求めることがなにを意味するのか、男性にも一緒に考えてもらいたい部分である。
女性は男性に選ばれるために存在しているわけではなく、女性もまた選ぶ権利と能力を持っている。
男性が選ばれる立場に立たされるときの、どうせ自分は選ばれないに違いないという痛みや憎しみは、かわいいの呪いの変奏曲のように思えてならない。

この本では、かわいいの呪いが他者から「選ばれる」ための呪いであることを説明するために、予防医学や差異化の欲望についても触れている。
このあたりの論の展開は、磯野真穂さん・宮野真生子さん『急に具合が悪くなる』とも通底しており、磯野さんらしさを感じて、非常に興味深く読んだ。

歴史的にふくよかであることよりも痩せていることのほうに価値を付与されるようになった背景に、20世紀後半以降の予防医学の台頭がある。
医学が、「目の前で苦しんでいる人を治療するという『いまここ』に着目する」ものから、苦しみの真っ最中ではない人々の身体にまで助言したり、生き方や生活の仕方に干渉するようになっていく。
病気を事前に予防できることは素晴らしいことであるかもしれないが、病気と健康の境目があいまいになり、病気になることは予防や管理のミスとして位置づけられかねないことになる。
「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)ことは、本書のなかではだからこそダイエットというものに日本全体がよいものという認識を持って、ダイエットに役立つとなれば無頓着に全肯定の振る舞いを示すことを説明する。
しかし、読み手である私は、Covid-19流行の外出自粛期間中に読んだからこそ、違う意味を見出した。そのことは、後でもう一回、触れたいと思う。

また、「差異化の欲望」というのは、「隣にいる人より、あるいは過去の自分よりもちょっとだけ優れていたいという、私たちの心の奥底にある欲望」(p.86)である。
自分自身の達成の欲求を満たすことができるが、承認や親和の欲求と結びついて、選ばれるためにより魅力的に、つまりここでは、よりかわいく、より痩せていることに、人を駆り立てるものの一つとして登場する。
この差異化の欲望を、私がよく見かけるのは、摂食障害の方にとどまらない。それはSNSのなかでもよくあることであるし、なんといっても、オンラインゲームの世界では、まさにそれ。そればっかり。
ほんの少しでも早い記録や、ほんの少しでも新しい装備や、ほんの少しでも強い武器、あるいは、ほんの少しでも魅力的な”相方”…といった様々なところで、人は競い合う。自慢しあう。時には、罵倒しあう。お金をかけたり、時間をかけたりして、現実がおろそかになる人も出てきてしまうほどに。
この数年、オンラインゲームの中で見てきた様々な問題を一言で説明してしまうような、すごいキーワードと出会ってしまったと思った。

2.ふつうの呪い

人は「ふつう」であることに捉われやすい。
ふつうであれ。これが呪いとして働くことは、同調圧力を考えてもらえば、その息苦しさが呪いであることが伝わるのではないか。
ふつうであれ、ということは、ちょっとした工夫や努力で、集団で居心地がよくなるまじないのように用いられることも多い。かわいいの呪いとまったく同じである。
だが、ふつうとは何であろうか?

摂食障害では、「ふつうに食べる」ことが難しくなる。
糖質制限ダイエットの根拠が薄いことを解説した上で、磯野さんは、ダイエット方法を選ぶときの「強烈なタブー、変身の物語、カリスマのいるダイエット」の3つの注意点を列挙する。
強烈なタブーは見るなの禁止令が示す通り、禁じられたものにこそ人の意識は向けられるので、そのタブーを破りやすくなる。「食べるな」というタブーは、食べることを考え続けることにほかならない。
変身は差異化の強烈なものであるし、たった一つの取り組みで人生がすべてうまくいくような魔法はありはしない。すがりつきたい、だまされたい気持ちはわかるとはいえ。
そして、カリスマの指示を仰がなければ何もできない状態になることは、無責任で思考放棄して楽な面もあるかもしれないが、「いい食べ物と悪い食べ物の境界を引いているのは人間であって現実の世界にそのような境界が引かれているわけでは」(p.160)ない。

ダイエットをするにしても、現実的な世界との関わりを失わずに行っていかなければならない。
なぜならば、「『ふつう』は『ふつう』の構造を意識させ、それを感覚的に行うことを禁ずることで意外と簡単に崩すことができる」(p.166)からだ。
これはとても怖い指摘であるが、本当にその通りだとしか言いようがない。
磯野さんはスポーツ選手を例に挙げるが、摂食障害の方たちにとっても、「ふつうに食べる」のふつうがわからなくて苦労することが極めて多い。
どれぐらいの量がふつうなのか、なにを食べることがふつうなのか、どういう食べ方がふつうなのか。
ふつうを意識した時から、ふつうは難しくなる。
あなたに「今からピンクの象を思い浮かべないでくださいね。絶対、思い浮かべたらだめですよ。ピンクの象は思い浮かべたらいけないんです!」とタブーを設けた瞬間から、頭にピンクの象が浮かんでしまうようなものだ。
ふつうを意識した時から、ぎこちなくなる。不鮮明になってしまうのだ。

磯野さんは、かわいいの呪いに対しても処方箋を提示したように、ふつうの呪いに対しても処方箋を示そうとする。
それは、「ふつうに食べられることは、無限定空間で生きられること」(p.172)という題に集約されるであろう。
現実の世界というものは、なにが起こるかわからない。こうなればこうなる、ああすればああなると規則性があるよう、その変数と規則は無限である。だから、こうだけすればよいというたった一つの規則や、あれさえあればいいというたった一つの変数だけで、コントロールすることはできない。
「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではない」(pp.172-173)のだ。
もっと平たく言えば、「そこに『おいしさ』はあるか」(p.132)ということ。世界の彩を感じながら食を楽しむことができたら、それはきっとふつうに食べられている。

ふつうに食べられる力の回復は、世界と具体的にかかわり合って生きているという感覚の回復とも言い換えることができる(p.182)

3.感染症流行と数字に束ねられる存在

ここまで、かわいいの呪いとふつうの呪いの二つを、この本を読み解くキーワードとして述べてきた。
だが、この本を私が読んだのは、Covid-19の流行に伴い、外出の自粛を促される「ふつうではない」状況下であった。抗がん剤治療中というハイリスクな体調であったから、この自粛を私は強く内面化していたと思う。
このCovid-19流行下の体験(以下、「コロナの体験」)を、この本から眺めてみたい。

コロナの体験は、「ふつう」を失う体験だったと思う。
それまでの「ふつう」は無限定空間で生きることだった。それが、家の中という「限定空間」に押し込められる体験となった。
家のなかでの生活も、厳密にいえば、日々刻々と変化する無限定なものであるが、活動範囲は禁止令によって限定されていたことが、ふつうではない体験となっていたように思う。
世界と身体の関わりの喪失であり、主観的な体験の喪失であり、社会という集団の中で具体的に生きる力を発揮する機会の喪失であった。
世界と身体の関わりは、物理的に外出を自粛するという意味でも断たれたが、世界のどこに病原菌があるかわからないという意味ですべてが有害でありうるという不信感においても断たれた。
目の前の物質の影響に注意を注ぐために、自分の感情や感覚を封印していくような対処方法も見られた。

コロナの体験下において、人々が食に注目したのは、生存のためだけではない。食品の買いだめが最初に起きた、そのことは生存のためであったかもしれないが、その後にこんな時でないと作ってみることはなかったというような様々な調理が流行した。蘇は最たるものである。
室内でデジタルな視聴覚情報だけが充満する中で、食は、味覚や嗅覚、触覚といった様々な感覚への刺激となる。
食材の多くは家の外部からもたらされるものであり、新奇さや変化を体験することができ、作った食べたという話題は外部とつながる話題となる。
集団や世界との交流を取り戻す糸口となっていたのだと思う。

引きこもり生活が長くなるにつれて、フードロスや在庫ロスの解消のための掲示板が登場した。そこでも私自身が食品を買い物した。
「購買意欲を誘うのは商品に付与された物語」(p.88)と看破されている通りで、そこに添えられた人々の苦労話に私は弱く、あっちにふらふら、こっちにふらふらと引かれてしまった。
そういった苦難にあっている人にささやかな支援を届けることで、自分が救世主に変貌するかのような変身の物語を期待したわけではないが、そこに生じるわずかな会話に、私はとても引き付けられたのだと思う。
そんな風に、私自身、世界と関わる機会に飢えていたのだと、今は思う。

「病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変える」(P.82)という個所を、先に引用した。
このことは、健康管理の一環としてダイエットが推進されてきたことに関連して言及されているが、『急に具合が悪くなる』ではがんとの関係で語られていた。
この病気の自己責任論は、今回の感染症の流行でも、しばしば、噴き出しているように思う。
「そんなところに行くからだ」とか「ちゃんとマスクをしないからだ」といった言説がそのものだ。
うかつな行動はなるべく控えたほうがいいとはいえ、病気に感染することは個人の努力だけでは避けえない事態である。道徳的な善悪で断じられることではない。
しかし、自己責任論は、病気の感染に道徳的な判断を導入するところが、先験的に間違いである。そう、間違いだ。

病気は職業も人種も知名度も関係なく襲うが、日本でコロナで死ぬということが我が身にも起こりうる身近なものとして認識される契機となったのは、芸能人の死だったように思う。
しかし、それより前から、世界のあちらこちらから1日に何人の人が感染し、何人の人が亡くなったというニュースが届いていた。
なぜだか、私にはイタリアのニュースが特に胸にこたえた。
ある日の1日の死者が500人を超えていたり、800人を超えていたり。それより多くの死者が出た日があり、国があろうとは思う。
その一人一人に人生があり、人間関係がある。その一人一人と芸能人は、どちらも私には等しく他人であり、見知らぬ誰かがすでにもう亡くなっていることに、無関心でいられる人の多さが、これまた胸が痛かった。

この時にTwitterでフォロワーさんとした会話は、その後に、この本で読んだでピダハンと呼ばれる人たちのことと結びついた。
アマゾンに住み、数字の概念も、色の概念も持たない人々。
彼らは抽象的な概念で多様性をそぎ落とすことをせずに、一つずつをとことん具象として具体として認識しているのだという。
彼らを例にして、磯野さんは数には管理という役割があり、世界の彩を消す脱文脈化の機能があることを指摘する。
となれば、私のしている心理援助職という職業は、個を数に置き換えずに個として向き合う仕事である。個別性や具体性、多様性や曖昧性、抽象性や複雑性を、分類したり消去したりせずに、文脈を取り戻し、個と世界との関わりを修復するような、そんな営みであると言えるのではないだろうか。
ピダハンのように世界のなかで生きることは、とんでもない記憶力を要求されるのであるが、そんな風に、なにもそぎ落とすことなく、その人をその人としてしか分類することも意味付けすることもなく、出会っていけたらよいなぁと思った。

人との出会い、関係性について、磯野さんは最後にラインという考えを提示する。
点ではなく、ライン。
この考え方は『急に具合が悪くなる』にも出てくるが、本書のほうがよりわかりやすく解説してあったように思う。
ほぼ同時期に出版されたこの2冊は、相補的な読み方ができるため、あわせて読むことが望ましいと聞いた通りだった。
『急に具合が悪くなる』ががんという死に至ることもある病を通じて生きることを照射した本であったのに対して、『ダイエット幻想』は愛されるという受動的な評価のためやせなければならないと能動的に献身して破綻する摂食障害を例にしながら生きることを照射する。
どちらも、生きる実感と希望を紡ぐ本である。

ダイエットが必要と言われている我が家の猫のぽよよんとしたお腹の写真と共に。

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