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書籍『急に具合が悪くなる』

宮野真生子・磯野真穂 2019 晶文社

作家の村山早紀さんに教えていただいて、手に取った。
その後、読み始める前に、私がまさに『急に具合が悪くなる』とは、誰も予想がつかなかったはずだ。
私自身にはかすかな予感がありつつも、まさかこんな時にと思ったのだから。
そういう臨場感と御縁のある読書となった。
三度目のがん治療……手術のために入院した先で読み始めた。

二人の知性が、とにかく素晴らしい。
宮野真生子さんは哲学者。磯野真穂さんは医療人類学者。
二人の真剣な言葉の投げ合いに、舌をまく。そんな表現があるのかと、胸を衝かれる。
そう!それ!!それなんですよ、と、どのページにも一人で唸り、頷く。
少し読んでは噛みしめ、また少し読んでは立ち止まって胸に響かせる。
たとえば、「不運は点、不幸は線」(p.124)であるとか、詩的ですらある。

この本のなかで取り扱われてるテーマは「生と死」に集約されていくのであるが、もう少し細かく分けていくと、①死とコントロール、②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野、③大病についてのポリティカルコレクトネスといったあたりが大変興味深かった。そして、④点と線と厚みが全体に流れている。

まず、①死とコントロールについて。ハイデガーの語る死についてで思い出した私自身の死生観があるが、それは別の記事に書くことにしたいと思う。
がんになることを、自己責任論として語る人が世の中にいる。私とてなりたくてなったわけではないし、ならなくてすむならなったわけがないのであるが、そこを宮野さんは「合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、コントロールの欲求と言える」(p.86)と指摘する。
それを磯野さんは「何かには必ず原因があり、合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念」(p.105)と受け止める。
このような欲求と信念が、自己責任論であるのではないか。だからこそ、がんになったことも自己責任論ということにしてしまわれる。
人間がどうしても、なんで?と原因を知りたがる習性があるからこそ、このようなことが起きる。
磯野さんは「科学は<HOW>を説明し、妖術は<WHY>を説明する」(p.104)と目からうろこがぽろぽろ落ちるような文化人類学の理解を紹介している。
科学的な理解というのは、ひとつずつ知見を積み重ねた蓋然的な理解であるが、それが迂遠で面倒なプロセスであったり、人のワーキングメモリーを超えるような情報量だったりするとき、人は直観的な理解を好む。直観的な理解は検証を拒むため、しばしば直感や直勘に堕する。
いくら、グレタ・トゥーンベリさんが「科学の声を聴いてほしい」と訴えても、人間が知りたがるのはWHY。そこに大きなずれが生じてしまうのだ。

そのような生き方の行き着く先として、宮野さんは「生き方の最終地点で求められるものが、最近流行の『終活』ではないかと思います。予期できない『死』というものに対し、事前に準備しておくことで、できる限り自分の人生の責任を自らとり、身ぎれいにしてこの世から離脱する」(p.158)ことを挙げる。
このくだりは、先に読んだ小島美羽さんの『時が止まった部屋:遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』の自死した人の部屋の章を想起した。荷物を処分し、ブルーシートを敷いて、「なにか未簡潔なものを残して周りに迷惑をかけることなく、自分の人生を自分の手で一個の完成したものにして去ってゆく」(pp.158-159)。そのようなコントロールを達成しようとして行きつく先に、終活としての自死があるように思われた。
宮野さんは続けて、「未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるから。生きている者は、そうした痕跡をめぐって語り合い、考え、引き継いだり引き継がなかったりしつつ、亡くなった人を思い、その死を受け入れてゆけるのかもしれません」(p.159)と語る。
言い換えれば、他者に迷惑を残してよいことや、人生は未完成でよいことが、生きる隙間にならないだろうか。完全でなくてよいのだ。コントロールできなくてよいのだ。自己責任で背負わなくてもよいのだ。
死は不完全で偶然である。けして、「なぜ」では説明できない。その不確実さの中に放り込まれる体験であるから、逆に妖術にはまりこみやすい人も出てしまうのだろう。

②インフォームドコンセントと<かもしれない>の荒野について。これは、実感をもって頷くことばかりである。
私自身ががんの治療について、この手術をしたらどうとか、この抗がん剤を使うとどうとか、%で数字を示されながら選択することが続いていた。正直なところ、私は専門家ではないので、なにがよいか、選べと言われても困るので、医師のおすすめを追認することしかできない。もっと積極的に、おすすめの治療法を示してほしいし、それを選ぶのが専門性じゃないのか?とつっかかりたくなる。
宮野さんは、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」(p.48)に対して、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(p.49)と、率直に私の心中を代弁してくださるかのように述べる。
エビデンスという数字を示すことで、「現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多い」(p.38)という磯野さんの指摘も、じわじわと染みてきた。

患者は、「待ち受ける未来はこうだからこちらの道をゆく」という運命論的な選択しかできないということになります。運命論的に見据えられた未来は、患者の意思だけで作られたわけではなく、医療者の意図、さらにいえばかれらが拠り所にするエビデンスの作成者の意図との融合物です。医療者が「患者の意思を尊重」というとき、その患者の意思の中に、医療者の意思が相当に組み込まれている。<正しい情報>という言葉には、その現実を見えなくさせる力があるため、そのことはあまり真剣に考えられていないような気がします。(p.40)

このくだりは、自分もまた医療領域で働いている以上、肝に銘じておきたいと思った。
インフォームドコンセントそのものを否定はしないが、そこに欺瞞を持たせないようにしたい。
なぜなら、選ぶのも、決めるのも、本当に大仕事で疲れるからだ。

数字でこうなるかもしれない、ああなるかもしれないと示されて、どこが確かな正解の道かわからないまま、そろそろと慎重に生きるしかない。
そのような<かもしれない>で溢れているのが、保険適用の標準的な治療をやりつくした後、緩和病棟に入るほどは悪化していない状態の人が、自由診療に向かった先にあるという。
合理的に判断しようと思っても、エビデンスまでたどり着かないような<かもしれない>の荒野。
そりゃあ、妖術に頼りたくなる人を責めるわけにはいかない。
合理的な判断そのものが立ち行かなくなる境地を示すことは、合理的で自己責任をもって生きるという生き方そのものの限界を示している。
「どれを選んでもうまくいくかどうかはわからない」(p.228)のだ。

付け加えれば、偶然性を恐れる人たちの息苦しさも、偶然しかない世界であることを社会が否認して、完璧を目指させられることと不可分であると感じた。
不可能な自己責任論に追いつめられる。首を絞めあう。
その中で、まじめに限りなくNGを避けようとして、身動きが取れなくなってしまったり、できない自分を責め続けるような事態になっているのだろう。
そんな風に考えることもできると思った。

③大病についてのポリティカルコレクトネスについて。
がんになった人にはこれを言ってはいけないとか、こういう風に受け答えしましょうとか、マニュアル化しようとしてしまう人たちがいる。それは、相手を傷つけてはいけないという配慮に満ちているようで、実は日常を失わせ、患者の人間性を疎外する。
専門家としてなにがしかの患者の家族に会うときに、安易に日常性をセラピューティックなもので侵襲させてしまうような助言をしないよう、自戒したい。

「ガンが治ったら」という仮定は、「ガンが治らなかったら」というもう一つの可能性を浮かび上がらせます。さらに、「治ったら一番に何がしたいか」という問いかけは、治らねば一番したいことができないというメッセージを暗に発しています。(p.44)

この宮野さんが書いた個所を読んだとき、私は自分の手術が終わり、腫瘍は取り除けたと思っていた。自分の中に腫瘍が残っており、つまりは「治る」という状態に永遠に至ることがないことを知らないうちに、読んだ。
治るというのはなにか。そのことも、深い問いだ。
うつ病の治療を受けている方に、「寛解」という概念を示して、なかなか納得してもらえないこともあるが、当たり前だ。
完治を目指してきたのに、完治はしない。寛解だから治療終了と言われて、納得できる人はなかなかいないだろう。
それと一緒だ。どうやらがんは私から消えないらしい。前回の手術から今回の再発の間、一応は腫瘍がない状態でがん患者を名乗ってもいいものか?と考えていたが、今度はどうやらがん患者であることが私の一部として背負い続けないと仕方がないようだ。
もう元通りになることはないことに私自身も、多少のショックを受けているが、これを人に話すことが大仕事であることを今回思い知った。

相手ががんであると知った時から、あれがいい、これもいいと、勧めてくる人たちがいる。その現象について、幡野広志@hatanohiroshi さんもツイートされていたし、宮野さんも触れている。
私はそこまでの目にあっていないが、だが、この病状を伝えると相手のほうが動揺して大騒ぎする場面ならあった。大騒ぎをしないようにしてくれているが、両親やパートナーがショックを受けているのは感じている。
そうなってくるとかける言葉に困る。私は相手を過剰に動揺させたくないために言葉に困り、相手は私に対して何を言ったらよいか、言ってもよいかがわからなくて困る。
そのようにコミュニケーションが硬直し、患者ー健康な人との役割が固定していくことについて、宮野さんと磯野さんは丁寧に対話で取り上げる。

たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている、それがガン患者であることを一〇〇パーセント受け入れていないということの意味です。そして、こうした生き方をとることで、私はそれなりに充実した人生をおくることができています。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません。(p.116)

この言葉に、今、支えられている。見習いたいと思う。大いに、参考にしていきたい。
私は私。私のすべてががん患者であることに覆いつくされないように。がん患者である私ではなく、私の一部にがんがある、ただそれだけ。
そんな風に思えたのは、まったく同じ病気や病状ではないが、宮野さんが先輩として言葉を紡いでくれたからだ。
この本に、今、出会えてよかった。

④点と線と厚みは、全体を通してちりばめられたキーワードのようなものだ。それは少しずつ表現を変えながら、何度も何度も立ち現れる。
二人の間に自由な連想が働いていることを教えてくれると同時に、まるでミルトン・エリクソンの催眠を読んでいるように私をトランスをいざなった。
それが明確になるのが第6便の「不運は点、不幸は線」(p.124)という表現からだ。そこからSNSのLINEやインゴルドという文化人類学者の「歴史の中で、ラインを生み出した運動が次第にラインから奪われていく経緯を示すこと」(p.182)という議論など、いくつもの線が引かれていく。そして、それは織物に編み込まれていく糸となるのだ。

人との出会いは、糸を結ぶようなものだと私は思う。
人生を織物にたとえることはよくあるが、編み物でもいい。
途中で加えた色糸を、そこから先の自分の織物に織り込み、編み込んでいく。
そうやって、自分だけのタペストリーもしくはwebsを作り上げていく。
その加えた糸の結び目より前にも糸はあり、その糸の端を垂れたまままにしておかないようにするために、さかのぼって編み込んでいくこともするだろう。きっと出会うはずだったんだと考えたり、これまでの出会う前の時間にも意味があったと考えたり、磯野さんが宮野さんを魂の分かち合いとして位置付けたように。
そうして、念入りに両端を編み込んで、その人がいつか世界から消えてしまっても、自分の世界にはしっかりと在り続けるように位置付ける。自分の人生に意味づける。

いま私は、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」と書きました。そう、世界はこんなふうに、いつでも新しい始まりに充ちている。一方向的に流れるだけの時間のなかで点になって、リスクの計算をして、合理的に人生を計画し、他者との関係をフォーマット化しようとするとき、あるいは自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべて委ねているときには気づけないかもしれないけれど、私たちが生きている世界って、本来、こんな場所なんだ。そんな世界へ出て、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いを引き受けるところにこそ、自分がいる。(p.224)

私は宮野さんに教えてもらった「世界への信と偶然に生まれてくる『いま』に身を委ねる勇気」(p.96)を持ちつつ、明日からの入院と抗がん剤治療にトライしたいと思う。
忘れそうになったら、また、この本を手にとりたいと思う。
もしかしたら、どこかですれ違っていた人たちと、この本を教えてくれた人に感謝をこめて、筆を置くこととする。


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