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活字嫌いが読書から得たもの

本を読むということはハードルが高い


昨今ではSNSが発達したことによって、「動画」によるエンタメが隆盛を誇っている。具体的には、ニコニコ動画からYouTube、TikTokと、動画の中でもコンテンツがどんどん短くなっている現状が見て取れる。

そんな時代に「読書」という地味で時間のかかるものはエンタメとして錆びて見える。

かくいう私も活字には苦手意識があって、必要だから読むことはあっても、趣味嗜好としてはあえて選ぶようなことはしない。

しかし、それでも、私からすると読書家はかっこいい。
読書を楽しむような人種は文化人で、知識のある聡明な大人に見えてしまうのだ。

食わず嫌いも良くないだろうということで、重い腰を上げて本を開くことにした。
今回は、かっこつけの副産物が意外にも豊富であったので紹介していきたい。





コーヒーの味がわかるようになる


読書をするようになって良かったと感じたこととして私が真っ先に挙げたいのは、コーヒーの味がわかるようになったということである。






いや、それ?

それである。断じてそれである。
先述の通りに読書は地味である。感覚的な刺激が少ないために、時間を長く感じる。もちろんそのゆったりとした時間の流れも重要な魅力の一つである。
だからこそお供というものが必要で、その代表がコーヒーであり、そこに詳しくなることは必然であろう。

読書あるあるとして、目が滑るというものがある。字面を追ってはいるが意味が入ってこないという状態で、確かに本を読んでいると直面するものである。

やはり我々がハードルの高さを感じるものには、技術を必要とするものが多い。
読書も例外ではなく、初心者には難しい部分がある。100の情報を読んだからといって100の情報を得られるとは限らない。どれくらい覚えていられるかという問題もあるし、そもそも難しすぎて頭に入ってこないことも往々にしてあり得る。

その中でも、コーヒーは誰でも楽しむことができる。(もちろん他の飲み物やお菓子でも良い)
むしろ、コーヒーを飲むために渋々読書をするのだ。活字に慣れていないうちには、肩に力を入れて読むような方法では長続きしない。あくまでおまけで読書することがいいのではないだろうか。

コーヒーでは、酸味や深み、コク、苦味や豆の味わいなどの評価項目があり、これを比較することで好みの味を見つけられるだろうしそれを語ることができる。
そしてそれがわかると、コーヒーの世界を楽しむことができて人生が少し豊かになる。
あとカッコいい。


また、実は味と結びつくことで読書効率も良くなる。

私がよく行く大きな書店にはカフェが併設してある。いかにもコバンザメカフェではあるが、狙いの通り、よくコーヒー片手に読書を楽しんでいる。
そこのコーヒーは酸味が弱く、豆の深い味わいがダイレクトに感じられるのが特徴である。その味わいと読んだ本がリンクして、同じコーヒーを口にしたときに、以前目を通した既読の本の内容がふと思い出されることがある。
これを繰り返すことで、新しい視点を手に入れた状態で次の本に手をつけることができる。


これを心理学ではマルチモーダルとかいって、複雑な情報処理をするので体験価値も上がるらしい。
外的な刺激の数が増えると処理が複雑になって、より濃い体験になる。
ここで数式や有名な実験などを提示できるとスマートなのだが、心理学を専攻しているような人間ではないためこの辺りで留めておく。

(こんな経緯でコーヒーが好きになったので、コーヒーのみに焦点を当てて書く会を作っても良いかもしれない。)




少しだけ朝が長くなる


読書におけるゴールデンタイムは朝であろう。休日の朝にする読書など想像するだけで優雅な品の良い時間が流れていることがわかる。

ところで、読書家には共感を得られるだろうし、そうでない方にはぜひ感じてもらいたいのだが、休日の過ごし方の中でも「読書」は体感時間が長い。
ある程度の文量を読んで、一息つきながら(もちろんコーヒーを飲みながら)、ふと時間を見た時に「まだこれくらいしか経ってないんだ」となることがしばしばある。

確かに楽しみながら読んでいるが、動画やゲームに比べてピカピカ光らないし、気を引くような効果音もない。
派手な演出がない分、ゆっくりと時間が流れるように感じる。

朝の数分の価値の高さはみなさんのよく知っているところであろう。
あと5分、あと10分だけでも時間があれば、二度寝ができるかもしれないし、朝の準備に時間をかけられるかもしれない。

そんな黄金の時間をゆっくりと感じられて喜ばしい。

そして夜寝る時の一瞬、1日を振り返るときに特に満足して目を瞑ることができる。

満足して寝られるのなら、最終的には満足して死ねるのではないかと思えてくる。小さい頃に大人たちがこぞって勧めてくるのはこういうことなのかもしれない。




人と話すことができるようになる


ここまでの項目では直接的ではないというか、きっと予想していたような答えが出てこなくてストレスだったかもしれない。

前述の項目よりも一般的な恩恵を感じたものを挙げるとすれば、それはきっと人と上手く話すことができるようになったということだろう。

インプットの量が増えると本当に話題に困らなくなる。
都市伝説のように唱えられていた、コミュ力の虎の巻は実在したのだ。

相手が少しでも隙を見せれば、それを会話の糸口として本で得た知見を武器にしながら手繰り寄せることができる。

細かなうんちくを携えておくと気の利いた返しができる。実にスマートである。


しかしながらこの使い方をする場合には注意点がある。

それは知識ひけらかし野郎になってしまう危険性を孕んでいる点である


ちょうどよくいるためのコツとしては、相手のリアクションをじっと観察することである。
ワンピースならナミが細かな空気の変化から気象の急変を読み取るように(ワンピースに詳しくないのに引用しています)、少しでも興味なさそうな雰囲気を出したなら即撤退である。この引き際が重要である。

会話の中での知識というものは、そのほとんどがカウンター用である。
相手の発言の返しとして若干捻ったものが出せるのが安全な使い方なのだろう。




知識は人生を豊かにする


月並みだが、やはり知識は人生を豊かにする。前述の話題になるという利点があったが、その問題は相手の顔色を伺う必要があることだ。
しかし、唯一顔色を伺う必要のない相手がいる。
それこそが自分自身である。

自分の知識を自分にひけらかして不機嫌になることはまずない。
「これって前に見たあれのことじゃん!」となった時にはまあ気持ちが良い。

自分で自分の機嫌くらい取れるべきだ。
自分の人生の価値くらい自分で決めるべきだ。
そのためには知っていることが多い方が何かと便利なのである。


また、頭の中に止まらず、知識があるとできることが増える
現にこの記事も読書を通して得たものを使って書かれている。知っていることについては語れるし、それを使って形を与えることもできるのである。

何かを生むことが価値の全てとは思わないが、それによって授かることのできる恩恵は少なからず存在する。
そして、形を与えると思いがけない結果をもたらすことがある。それは良し悪しを選別できるようなものではないが、自分の想像の範疇を超えることもある。
それが特に面白い。


総じて知識や知見は人生を豊かにしてくれるのだろう。
偏った視点では見えてこなかった世界観があり、それを覗き見する行為はとんでもなく楽しい。
(もちろん使い方にはよるが)




読書をするかしないかは、一度読書をしてから決めれば良い


今回は読書から得られたものと題して、読書のいいところを説明してきた。
しかし「読書をしろ」というのはこの記事の伝えたいところではない。
私の言いたいことは「食わず嫌いはやめろ」ということである。

私自身は読書を始めて良かったと思う。
しかしあなたが読書を始めるかは自由である。
ただ、読書を神聖視して過剰に高いハードルを設置することはやめてほしい。
馴染みのないものはなんでも始めにくいものである。気が進まないながらも始めてみて、それで「なんか面白いかも」と思えたら儲け物である。

なんとなく満たされない感じがあって、そのために何かを始めようというのなら、そこに読書という選択肢を足してほしい。
人生とは思いの外長いもので、暇潰しはいくらあっても望むところというわけである。



ところで本の評価には読後感というものがある。文字の通り、読んだ後にどんな感じを得られるかというものである。
この記事も一端に文章の体をとっているので、そこが意識される。
ただこれが非常に難しい。書き手が未熟なことも相まってほぼ不可能である。

そこであなたには、どんなに短くても良いから次の文章に取り掛かってもらいたい。
そうすればこの文章には読後感というものが存在せず、むしろ、読前感と言えるだろう。
読後のあなたの気分は、次の書き手に委ねることにする。


あなたの今日が少しでも満たされていることを願って。

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