藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【第5話】
第一章 狐狸の、人に化けて池に落つること
「それじゃあ、大の男でも飛び石から落ちてしまうことに納得できたのなら……狐狸が化けた、なんて話を信じる人間もいないわけね?」
4
「私はひとつ、気になっていることがあったんだ。だって、事件が発覚したのは昨日の夕方でしょう。それなのに、翌日には容疑者の特定が済んでいるという。随分と展開が早いな、と思ったんだ」
それも、容疑者たちと辻占売りの間には、面識がないにもかかわらず、である。
だからきっと、印象に残ると同時に、特定もしやすいような、そんな何かしらの特徴があったのだろうと考えたのだ。
それこそ〝左足を引きずって歩く男〟と同じくらい、一目で分かるような、外見的な特徴が。
「そうね。元武官の男にも、分かりやすい目印があったのではない? ──たとえば、片目を怪我して、包帯や眼帯をしていた、だとか」
「!」
光る君の目が、驚いたように見開かれる。
その反応に、脩子は小さく「ビンゴかな」と呟いた。
「じゃあ、やっぱりその元武官が犯人だと私は思うな」
脩子の断定する口調に、光る君は困ったような顔をして言う。
「確かに元武官は、一昨日に右目を怪我して、包帯を巻いていたそうですけど……でも、それだけですよ? 両腕も両足も、問題なく動かせるのに、どうして池なんかに落ちるんです?」
そう言って、光る君は納得がいかないとでも言いたげに首を捻る。
だが、脩子はその問いには答えずに、代わりにこう問いかけた。
「ねぇ。人の目は、どうして二つあるのだと思う?」と。
おかわり、と湯呑みを差し出せば、命婦が呆れ顔でお茶を注ぐ。
「そんなもの。神や御仏が、人をそのようにお作りになったからでございましょう。というよりも、そんなことを考えたところで、人の目は一つにも三つにもなりませんのに。妙なことを考える宮さまですよ」
命婦は大仰にため息を吐いて、そんなことを言う。
だが光る君はといえば、脩子の意図することを正しく汲み取ったのだろう。思案げに眉を寄せて、「でも、本当だ……」と小さく呟いた。
「……どうして人の目って、二つもあるんだろう。だって、片目を瞑っても、両目で見ても、見える景色は変わらない。だったら、目は一つでも良いはずなのに……」
あぁ、つくづく聡いなと、脩子は満足げに笑う。
それから艶やかな髪をぽんと撫でて言った。
「ひかる。二十秒間、目を瞑ってごらん」
「え、どうしてですか?」
「いいから、目を閉じる。二十秒経ったら、片目だけ開けていいよ」
不思議そうに目を瞬かせながら、それでも光る君は大人しく瞼を下ろす。
二十を数えるまでの間に、脩子は光る君の両腕を取り、身体の左右にピンと伸ばさせた。それから、両手の人差し指も伸ばすように指示を出す。
「片目だけ開けたら、そのまま、目の前で指先同士をくっつけるの。腕は真っすぐ伸ばしたままね」
「こうですか?」
光る君は、首を傾げながらも、言われた通りにする。
近付く指先は、やがて光る君の真正面で、僅かに掠るような形で交わった。
「……あれ?」
「指の先端どうしを合わせようとしたのに、合いにくいでしょう。両の目で見ながらだったら、簡単なのにね」
ぱちぱちと目を瞬く光る君に、脩子はくすりと笑みを零す。
手近なところに放ってあった和綴じの冊子を手に取って、鼻の前に立てて翳してみれば。右目を閉じると表紙が、左目を閉じると背表紙が、それぞれに映る。
「右目で見る景色と、左目で見る景色……。厳密にいえば、二つは全く同じものではないのよね。右目と左目、両方で見た景色を合わせることで、人は物との距離を掴んでいる」
脩子は行儀悪くも文机を引き寄せて、蒔絵の硯箱をぱかりと開けた。
何か書き付けるものは──と辺りを見回して、無いので文箱から一番上の文を手に取った。薄様(恋文の定番、繊細で薄い紙だ)には、何やらさらさらと和歌が書いてあるが、むしろその余白くらいで丁度いい。
筆を手に取り、脩子は丸を四つ、和歌の余白に描いていく。
命婦が視界の隅で「あぁ、素晴らしいお文に、なんと勿体ない……」と嘆いているが、聞こえないふりだ。
(天) ◯ ○ ◯○ (地)
脩子は大きさも間隔もまちまちの丸を、適当に四つ、余白に落とす。
「なんです? これ」
光る君は、文机の反対側から身を乗り出して、興味津々といった様子で手元を覗き込んできた。脩子は料紙を滑らせ、それを光る君の方へと押しやって言う。
「ほら、この丸を飛び石だと思って、文机の上で飛んでみなさいな。もちろん、片目は閉じたままだよ」
目線が文机の高さとほぼ同じになるように、光る君の背後に回って、その肩を押してやる。光る君は「え、え?」と戸惑いながらも、大人しく文机と同じ高さに身体を伏せた。
脩子は、片目を瞑ったままの少年に筆を握らせる。
「筆を自分に見立ててね。はい、飛んでみる」
「えぇ……? こんな感じでいいんですか?」
光る君の握る筆は、紙の手前から、トン、トン、と丸の上を跳ねていき──、
「あ……」
やがて、ぴたりとその筆の動きが止まる。
筆の穂先が落とす点は、三つめと四つめの丸の間、確かに丸の外側へと着地していた。
「ね、上手く行かないでしょう」
光る君の肩を叩きながら、脩子は笑う。
脩子自身、小学生の時分に体感したから知っているのだ。
その昔、ものもらいのせいで、眼帯を付ける機会があったのだが。
そういう時に『けんけんぱ』をすると、何故だかまるで上手くいかない。どうしてなのか気になって、夏休みの自由課題として調べたくらいだ。
「片目だと、遠近感が狂ってしまうのよね。ほら、池の飛び石なんて、大きさも間隔もまちまちなものでしょう。どれだけ一つ一つの石が大きくとも、その間隔が広くなくとも、関係ないのだわ」
たかだか伸ばした腕の先ほどの距離でさえ、狂いが生じてしまうのだ。
大柄な男性の目線から見下ろした、少し先の石。それを、急いで踏み越えて行こうというのである。足を踏み外しても、何ら不思議はなかった。
それに、と脩子は言葉を続ける。
「撲殺というからには、ある程度、両足に踏ん張りが利く人間でないと難しいはずだしね。やっぱり、元武官の男が犯人なんだと思うな」
元武官は、もう一人の容疑者の足が不自由であることを、どこかで聞きつけたのか。あるいは、取り調べに熱が入り出したことが、恐ろしくなったのか。
何とか容疑者から外れたい一心で、『狐狸が化けた』などと突拍子もない言い逃れを始めたのだろう。
「ほら、分かったら、さっさと検非違使たちに伝えておいでなさいな」
脩子はそう言って、光る君の背中を軽く押した。
だが、振り返った光る君は、何とも物言いたげな表情でこちらを見る。
「……ねぇ、宮さま。宮さまのお名前を出して、検非違使たちに伝えるのは、やっぱり駄目ですか?」
「なんでさ。きみが聞いてきた話だろうに」
今さら何を言い出すのかと、思わず呆れ顔を向ける。
すると、光る君は何とも不本意そうに、こう続けるのだ。
「宮さまの考えを聞くのは楽しいけれど、これじゃあ僕、宮さまの手柄を横取りするみたいで嫌です」
むすっと顔を歪める光る君に、脩子は小さく吹き出した。
「だったら話は簡単だ。きみが、自分で思いつくようになったらいい」
「……簡単に言ってくれるなぁ」
「だって、私しか知らないことなんて、世の中にそう幾つもないんだもの」
事実、脩子は別に、とりわけ現象や物理法則に詳しい理系の徒ではないのだ。
謙遜でも何でもなく、知っていることなんて、随分と限られている。
けれどもしも、強いて言うのであれば。
それは『分からないこと』に出会ってしまった時。
『分からないならば、それは物の怪の類の仕業なのだ』と納得することに慣れすぎている、この時代の人間よりは、ほんの少しだけ。
『それは、本当に理解できない事象なのだろうか』と、もう一段深く考えることに慣れている。たったそれだけのことなのだ。
脩子だって、考えることを諦めてしまえば〝物の怪〟に囚われてしまうのだろう。けれど、思考を放棄しなければ、分かることは思いのほか多いのである。
根拠や理屈によって、思考を構成すること。
それは、この少年にも教えてきたつもりだった。
「きみは、私なんかよりずっと、おつむの出来がいいのだから。私に思いつけることくらい、きみにだって思い至れるはずなのよ。考えることをやめなければ、ね」
「……分かってます。僕だって、甥っ子の文章生より元武官の方が怪しいと思っていたんだから、僕も片目を隠して飛び石を飛んでみればよかったんだ。そうでしょう?」
「ま、段階を踏んで検証すれば、そのうち分かったんじゃない?」
悔しそうな顔をする少年に、可愛いところもあるものだと脩子は笑う。
色気を感じさせない雑な仕草で、丸い頭をうりうりわしゃわしゃと撫で回せば。
「ちょっと、やめてくださいってば」と、光る君は脩子の手から逃げ出していく。
「……その、小さな子どもにするみたいな扱い、やめてくれません?」
不服そうに顔をしかめる少年に、脩子は「きみが一人前になったのなら、やめてあげよう」と笑ってあしらう。
光る君はといえば、不貞腐れた様子でため息をついた。
「……あなたのそういうところ、僕、嫌いです」
「あら。だって、きみのそういうところが、子どもっぽいのだもの。好き嫌いでしか物事をはかれないの?」
「知ってますか? 宮さまみたいな人を、大人げないって言うんですよ。人の上げ足ばかり取らないでください」
「でも、私のところに解答を聞きに来るようじゃあ、まだまだ半人前だもの。悔しかったら、早く一人前になることだね」
すると、光る君はますます面白くなさそうな顔になって、拗ねたように言う。
「……その言葉、忘れないでくださいね?」
「はいはい。分かった、分かった」
「それから、その、さっきからずっと気になっていたんですけど」
「ん?」
光る君は、文机の上をちょいちょいと指差す。
「これ、恋文ですよね?」
指の先にあるのは、つい今しがた、余白に丸を書き付けたばかりの薄様だ。
流れるような筆致で書かれた恋の和歌は、書き足された不恰好な丸のせいで、何とも滑稽な見映えに成り果てているが。確かにそれは、恋文だった。
少年は、視線を文に落としながら、気まずそうに言う。
「……もらった恋文に落書きなんかして、良かったんですか?」
おおかた、手紙の送り主に同情でもしているのだろう。
なんとも形容しがたい表情をする少年に対し、脩子はことも無げに肩を竦めた。
「あぁ、どうせ断るのだから、いいのよ別に」
「えっ、断るんですか!?」
光る君は、光る君は信じられないと言いたげな顔で、あんぐりと口を開ける。
「……だってこのお手蹟、左大臣家の嫡男のものですよね?」
「へぇ、そうなんだ?」
それは正直、初耳だった。
左大臣家の嫡男といえば、のちの頭中将である。
いずれ桜か橘か。光源氏と並び立つ双璧にして、光源氏の親友であり、恋の好敵手であり、政敵でもある。属性てんこ盛りの重要人物だった。
そんな人物の存在を、どうして忘れていたんだ、などとは言う勿れ。
この時代、名前は親や配偶者など、一部の親しい人間しか呼ぶことの出来ない特別なもの。個人を表す呼び方は基本的に、官位や役職、おまけに住所情報などだ。
つまり、そんな流動的なものをいちいち覚えていられるか、という話である。そういうわけで、未来の頭中将の動向など、把握していなかったのだが──。
「まぁ、どのみち断るのだから、やっぱり問題はないかな」
「……正気ですか?」
光る君が、信じられないとばかりにこちらを見上げる。
「左大臣家の嫡男といえば、家柄だって申し分ない、今をときめく貴公子ですよ? その上、容姿だって整っている風流人だし。……ものすごい良縁じゃないですか、もったいない」
そう言いつつ、光る君は片手を胸に当て、しきりと首を傾げている。
よほど理解に苦しむのか、狐につままれたような表情を浮かべている少年に、脩子は小さく苦笑した。
この時代の価値観から言えば、光る君の言い分は実に真っ当なことだろう。
けれど、脩子の価値観は、現代の世で育まれたものだ。
身に染みついた価値観や尺度というものは、そう簡単には変えられない。
「私はさ、誰かと結婚するつもりはないんだ」
脩子はこの時代で恋愛をすることも、結婚することも、最初から諦めていた。
そもそも平安時代の恋愛事情というものが、現代人の感覚とは致命的に相容れないのだから、もうどうしようもないのだ。
だって、和歌のやり取りをするだけで、どうやって相手の性格や人となりを知れというのだろう。
おまけに、いざ一線を越えるまでは、互いの容姿だって分からないのである。
『あなたが恋しい、あなたに逢いたい』という和歌を送りつけられたところで、相手は顔も名前も知らない、言葉を交わしたこともない人間なのだ。
そんな相手から熱烈な恋文をもらったところで「いやそれ『性別が可愛い』と言っているのと同義じゃん」と思ってしまう時点で、お察しである。
恋愛も結婚も、始まる前から終わっていると言う他ない。
「宮さまの身分なら、正妻の座を望める立場でしょう? それなのに、誰とも結婚しないって言うんですか?」
「えぇ、そう。しない。たとえ正妻になれたとしてもね」
現代であれば『不倫は心の殺人』などと言われるが。
一夫多妻制のこの時代、残念ながら、浮気は文化だ。
いや、厳密にいえば、同時に持てる正妻は一人と法で定められているのだが、妾──つまり、内縁の妻を何人持とうと自由なのである。
複数いる女性関係の中で、最も身分の高い女性が正妻として扱われるのだ。
確かに先帝の皇女である脩子は、基本的には正妻になれる立場なのだろうが。
「正妻であろうと、妾妻だろうと、辿る末路は同じだもの。だから、私は結婚なんてしない。誰ともね」
女側の身分が高ければ、確かに正妻の座には収まれるのだろう。
けれど、夫は他所に女を作るのが当たり前の時代なのだ。
正妻になったところで、いつ帰ってくるとも知れない夫を待ち続ける羽目になるのは、目に見えている。
そうなれば、いつ訪れてくれるかも分からない男を待ち続ける妾妻の立場と、何が違うと言うのだろう。どっちにしろ、やはり女が辿る末路は同じなのだ。
だからこそ、古今和歌集などは『いつ帰って/訪ねてくるか分からない男を待つ和歌』で溢れかえっているし、旦那への愚痴をひたすらに綴った『蜻蛉日記』なんかが生まれてしまうのである。
郷に入っては郷に従え。
ゆえにこそ、一夫多妻制そのものを批判するつもりは、脩子にはない。
ただ、その理不尽を自分が受容できるかといえば、話は別だというだけのことだ。
もし仮に、一夫一妻を真の意味で是として、妾妻を作らない男がいるのなら、一考の余地くらいはあるかもしれないが。それも、期待するだけ無駄というものだろう。
「だから私は、適度な時期に出家して、生涯独身を貫くつもりなの。肉も魚も食べる、生臭の尼になってやるのよ」
そう毅然と宣言すれば、光る君は苦笑して「やっぱり変なひと」と呟いた。
「じゃあ、この恋文、適当にお断りしちゃいますよ?」
「あ、それは助かるな。ちゃんと、きみの筆跡だとは分からないようにしてね」
「分かってますって。和歌も適当でいいですか?」
「うん、任せた」
「はーい」
気軽な調子で請け負って、光る君は文机に向かい、文をしたためていく。
ものの数秒で完成した返歌は、何とも見事な出来栄えだった。これならば、袖にする内容だとしても文句は出るまい。さすがは、のちの光源氏である。
「ありがとう」
「これくらい、お安い御用ですよ。僕も、こちらにお邪魔させて頂いてるわけだし」
光る君はそう言って、軽く肩を竦めてみせた。
折しも、遠くで時を報せる鐘鼓の音が聞こえる。
気付けば、御簾の隙間から入る光は色付き始めていて、もう半刻もすれば、空が茜色に染まるような頃合いだった。
「検非違使の陣所にも寄らないといけないし、僕、そろそろお暇しますね」
少年は慌ただしく覆面を身につけると、俊敏に立ち上がった。
するりと御簾の隙間に身を滑らせる身のこなしは、まるで猫のようだ。
「じゃあ、また来ます。藤の宮さま」
来ていいとも悪いとも、答えてはいないのだが。
一方的にそう告げて帰って行く少年に、脩子はため息を吐いた。
「藤の宮、ねぇ……」
御簾越しに、さわさわと揺れる藤の花影を眺めながら、誰に言うでもなくぽつりと呟く。
古代の日本において、名前は限られた人間にしか呼ばれることのない、特別なもの。大河ドラマなどで『道長どの』『清盛どの』などと呼ぶのは、現代人に分かりやすく伝えるための方便だ。
そのため個人を表す呼び方は、官位や役職名、あるいは住所情報などだった。
住所情報というのは、住んでいる邸宅などから、藤原頼通が『宇治どの』と呼ばれたといったようなケースである。
さて、脩子に宛てがわれた旧邸は、藤棚が綺麗なことで知られる屋敷だった。
そこに移り住んだ女四の宮だから、脩子の通称は〝藤の宮〟だ。
入内して、藤壺に住まうことにはならなかったというのに、藤の名を冠するようになったのは、何とも皮肉な話である。
おまけに、入内は回避したにもかかわらず、光る君との縁が続いているというのも、因果な巡り合わせだった。
とはいえ、この奇妙な関係も、少年が元服してしまえばいずれ終わる。
それまでは、弟分の探偵ごっこに付き合ってやるのも悪くはない。そんなことを思いながら、脩子は脇息に肘をつくのだった。
***
『第二章 鵺に縊り殺された姫君のこと』
【全話まとめ】↓↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?