藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【第16話】
第三章 花の夕顔、鬼はや一口に喰ひてけり
では、何を探していたのだと問われれば。
男はこう答えたのだという。
女の亡骸を探していたのだ、と。
7
鷲男いわく、眠る夕顔を盗み出し、彼女を背負って逃げた後のこと。
大貴族の屋敷が集中する区画は、あいにくと検非違使らの夜警が手厚い。
そこで、彼はその区画の周辺を避け、いったんは地理のわかる、五条の方面へと逃げたというのである。
だが、夜警の多い区画を避けた結果の、ある意味必然だとでもいうべきか。
彼の行く手を阻んだのは、例の野盗の一群であったのだそうだ。
当然ながら、女を置いていくようにと要求されたが、鷲男は夕顔を背負ったまま、ほうほうの体で逃げ出したという。
そうして、ひたすら我武者羅に逃げ惑った結果、気づけば貴族の屋敷街へと戻ってきたのだと、鷲男は語ったらしい。
無意識にでも、野盗に対抗できうる検非違使のもとへ駆け込もうとしたのかもしれなかった。
──幸いにも、背に負う姫君はまだ眠っている。もしも検非違使たちに不審がられたとしても、背負っているのは妻か妹だとでも答えよう。
そんなことを考えながら、鷲男はようやく背中の女を振り仰いだ。
すると、どうしたことだろう。女が、全く息をしていないように思われた。
鷲男はすっかり慌てふためき、大路の往来で、恐る恐る女を地面に下ろしてみたのだという。すると、どうやら女は、背中をばっさりと袈裟懸けに斬られていたというのである。逃げる最中に、野盗から斬りつけられたのだろうと思われた。
鷲男はすっかり動転してしまい、つい女を置いて逃げ出してしまったのだという。
だが、冷静になって考えれば、本当に女は死んでいただろうか。
もしもまだ息があったのなら、手当をすれば助かるのではなかろうか。
後になってそう考えた鷲男は、女を置いてきてしまったあたりに戻ってきたらしい。だが、探せども探せども、女の姿はどこにもない。
そうして朝から大路をうろついていたところを、検非違使に捕らえられたというわけだった。
「やうやう夜も明けゆくに、見ればて率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし、なんてね……」
「結末まで『芥川』に寄らなくてもいいでしょうにね……」
脩子と光る君は、互いに苦々しい声色で、そう呟く。
『芥川』では、女の悲鳴は雷雨にかき消されてしまい、男は背後の惨状に気づかなかったとあるけれど。
この事件の場合、夕顔は男が飲ませた眠り薬のため、悲鳴を上げることさえ出来なかったというわけだ。
夜警に当たっていた検非違使たちも、軒並み廃院の方へと集まっていたわけである。明らかに異状な有り様の女を背負う不審な男は、誰にも見咎められることがなかったというのも、何とも皮肉な話だった。
夕顔は、まだ生きているのかもしれない。
そう期待していた脩子たちからすれば、何ともやりきれない結末である。
脩子は光る君と顔を見合わせて、そっと静かに目を伏せた。
二人がいるのは、廃院からほど近い大通りだった。
鷲男が、夕顔の身体を置いて逃げてしまったという道である。
通りに面している屋敷の、立派な門戸の向こうには。精緻に整備された広大な庭園と、不釣り合いも見える、石造りの窯が見えた。塩釜である。
その向いにあるのは、あいにくと住むものがいなくなったばかりの屋敷だった。
屋敷の主人が、先月出家してしまったばかりなのだという。
「……ねぇ、ものすごく後味の悪いオチが見えるのだけれど」
「…………奇遇ですね、僕もです」
右大臣邸の門前に転がっている、女の遺体。
それをもしも、右大臣邸の誰かが発見してしまったとしたら。
藻塩焼きでの一件を思えば、そのあとの対応は、手に取るように分かるというものだった。
「たぶん彼女の遺体は、右大臣どのの指示によって、どこかに遺棄されたんでしょうね。……だけどこれじゃあ、罪には問えません」
光る君は、そう苦々しげに顔を歪める。
それはそうだ。右大臣自身が、直々に遺体を遺棄したはずもない。
彼はあくまでも、使用人に命じて遺棄させただけに過ぎないのだろう。
遺棄を実行させられた使用人を咎めるのも、不合理な話だ。どうせ、右大臣は知らぬ存ぜぬと白を切り通すのに違いなかった。
夕顔の本物の遺体は、野辺に打ち棄てられ、人知れず朽ちていくのだと思えばこそ。脩子は静かに、光る君に問うた。
「ねぇ、せめて夕顔の遺体のありかを聞き出して、ついでに右大臣にも、多少の罪悪感を植えつけてやるくらいはしようと思うのだけれど……きみも、乗る?」
光る君は、脩子の言葉に少しだけ目を瞠る。
それから光る君は苦笑して、脩子の顔を覗き込んだ。
「僕、口ではいつも、色々なことを言いますけど。いつだって、気にしなくていいんですからね。お心のままに、ご自分の正しいと思うことをなさって下さい。ちゃんとお供をしますから」
◇◆◇
夕顔の遺体は、碁盤の目の外、賀茂川のほとりに遺棄されたのだという。
そのことを聞き出せたのは、その日の子の刻に入った頃合いだった。
光る君は、すぐさま検非違使たちに、遺体の捜索に当たるよう指示を出す。
何ともやるせない幕引きだが、脩子にも、光る君にも、これ以上できることは何も無かった。
あとはただ、なるべく早く遺体が見つかるようにと祈る他ない。
脩子と光る君は、冷え切った体を竦めて合って、ふわりと白い息を吐いた。
二人が行ったことはといえば、本当にたいしたことではなかった。
ただ、夕顔の亡霊を演じて、右大臣邸を出入りする者を、片っ端から脅かして回ったというだけである。
脩子は、淡青色の袿の背に、真っ赤な絵の具をぶちまけて羽織り。
光る君は黒子として、側で黄色い炎の松明を掲げて、人魂を演出しただけだった。要するに、塩化ナトリウムを用いた炎色反応である。
だが、これがまぁ効果覿面で、普通ではあり得ない色をした炎に、彼らはたいそう畏れ慄いた。
その中でも、とりわけ尋常ではない怯え方をした者に「わたしの体はどこ?」と問うてみれば。遺棄を命じられた使用人は、何ともあっさりと口を割ったというわけだ。
脩子は右大臣へのささやかな置き土産として、使用人にそっと耳打ちした。
「斯様な仕打ちをお命じになったお人を、末代までお怨み参らせましょう。必ずや此の怨み、お伝えくださいますように」と。
それからはもう、右大臣邸はドンドコドンドコ、加持祈祷の大合唱だ。
居もしない亡霊に、せいぜい震え上がっていれば良いと、脩子は思う。
個人的には、いまいち物足りないところだが、物の怪を心から信じるこの時代の人間たちは、あまりやりすぎるとショックで死にかねないのである。
この辺りで手打ちとするのが、適当な塩梅なのだろうと思われた。
あまりにも後味の悪すぎる幕引きに、二人は言葉少なに、帰路を歩く。
何だかこのまま一人になるのは躊躇われて、脩子は「ちょっと一杯、付き合ってくれるかな」と光る君を振り仰いだ。
酒は憂いの玉箒といったのは、誰の漢詩だったろうか。
だが、この後味の悪さを呑み下すのにも、冷え切った身体を暖めるのにも、酒は確かにちょうど良かった。
光る君は、そんな脩子の思惑を汲み取ったのだろう。
彼も苦笑し、小さく頷いたのだった。
屋敷に戻れば、すっかりと人も寝静まっている。
二人がいつ戻ってくるかも分からなかったからなのだろう。母屋には夕食を盛った膳が二つ、布をかけられて並んでいた。
掛け布をめくってみれば、小鉢に載っているのは蒸し鮑、鰯の干物、魚の切り身などだ。酒の肴としてもちょうど良かった。
「あ、今日も雪が降り始めたみたいですよ。雪見酒と洒落込みます?」
「じゃあ、火鉢も持って、簀子に出よう」
着丈の長い袿姿も、ブランケット代わりにはなるだろう。
脩子は壺装束の腰紐を解いて、裾上げしていた着丈をぱさりと床に落とす。
それから、膳と酒、火鉢や円座などを持って、簀子に出たのだった。
ちらちらと舞い始めた雪の中で、月は煌々と照っている。
冴えた月光に照らされた庭を眺めながら、脩子と光る君は静かに盃を傾けた。
たちこめる清酒の甘やかな香りに、喉から胃の腑に落ちていく、ゆるやかな熱。
冷え切った身体に、酒がじんわりと沁みていく感覚を、脩子は静かに味わう。
やるせなさを呑み下すために、こんな日は、酒の力を借りたっていいだろう。
気心の知れた相手と、酒精でぼやけた頭をゆるく回転させて喋りながら、虚しさを希釈する。それが、この気の鬱ぐ夜をやり過ごすための、最適解のように思えた。
それから、二人はどれくらいの間、盃を傾けていただろうか。
「……私は、妾妻を持つような男を伴侶とするつもりはないよ」
静かにそう告げれば、光る君は小さく目を瞠り。
それから、彼は簀子に盃をコトリと置くと、肩を竦める。
「えぇ、知ってます」
「それじゃあ、きみは私に、いったい何を求めるって言うのさ」
「それはもちろん、正妻の座を」
「……そんなの、無理だろうに」
この時代、政治と閨事は切っても切り離せない。
多くの家との結びつきを持ち、宮中での顔を広げることは、政治力に直結するのである。妾妻を持つなというのはすなわち、貴族社会での出世を捨てろと要求するようなものだった。
おまけにいえば、後ろ盾のない彼にとって、政争の中での味方づくりさえもを阻害しかねない、かなり無茶な要求でもある。
彼自身、それを分かっていないはずもないだろうに。
言外にそう匂わせながら、脩子は光る君をじっと見つめる。
光る君は困ったように、小さく苦笑したようだった。
「えぇ、だからこそですよ。僕が正妻以外に、妾妻を全く作らなかったとしたら、周囲にはどう映ると思います? たぶん、僕には出世の意思がないのだと思われるでしょうね」
光る君は静かにそう言って、再び盃を傾ける。
それから、とろりとした水面に月を落として、ゆらりと揺らしながら呟いた。
「僕はそろそろ、兄上の地位をおびやかす意思はないのだと、右大臣方に示したいとも思っているんですよ。いい加減、命を狙われるのもこりごりですしね」
光る君は盃の月を一呑みに呷ると、ちらりと楽しげに脩子を見た。
「つまり、宮さまに操を立てるついでに、右大臣方へ、僕が政治的脅威たり得ないことも示せるってわけです。ねぇ、これって結構、一石二鳥だとは思いませんか?」
彼はそう言って、黒曜石みたいな双眸をゆるく撓ませた。
だが、その目に迷いはなく、そこには大真面目な意思だけが浮かんでいる。
「……だけど、私は本邸を追い出されたような皇女だぞ。きみが政争に巻き込まれてしまった時、後ろ盾としては弱すぎる」
「でも、たとえば僕が、濡れ衣を着せられて流罪にでもなろうものなら。検非違使たちはきっと、暴動を起こしてくれますよ。たぶん、都は大混乱だろうなぁ」
光る君は冗談めかした物言いで、くつくつと悪戯っぽく笑う。
「立身出世なら、他家との結びつきなんかに頼らずに、自分の身ひとつでやってみせます。そりゃあ、あなたが僕に、太政大臣の位を望むっていうのなら、難しいかもしれないけれど……。高い位を望まずに、慎ましく暮らしていく分には、十分だと思いませんか?」
光る君はそう言うと、柔らかく目を細めて微笑んでみせる。
脩子はといえば、問いかけの文末には答えずに、ただ静かに盃を呷るばかりだ。
白い吐息がふわりと広がり、夜の闇に消えていく。
光る君もまた、視線を庭へと戻して、しんしんと降る雪を眺めたようだった。
しばらくの沈黙ののち、光る君は再び口を開く。訥々としたその口調は、まるで独り言のようだった。
「……人というのは思いの外、簡単に人を殺そうと考えるみたいだ。あなたと出会って、色々な事件に関わっていくうちに、僕はそれをたくさん見てきました」
保身のため、財を得るため、嫉妬や復讐といった、愛憎のため。
あるいはもっと、別の理由のために──。
彼はどこか遠くを見るような眼差しで、ぼんやりと庭を眺めながら苦笑する。
その横顔を盗み見ながら、脩子はただ静かに、彼の言葉に耳を傾けていた。
「あなたは昔「和歌のやり取りをするだけで、どうやって相手の性格や人となりを知れというのか」だなんて言っていたけれど……。今なら少し、分かるような気がするんです。確かに和歌の贈答じゃあ、相手の人格までは推し量れない」
光る君は脩子にちらりと目を遣り、小さく肩を竦める。
「人は存外かんたんに、人を殺そうと志すものだから。だからこそ、素性の知れない相手と深い仲になるのは、とても恐ろしいことだと、思うようになりました」
いざ結婚してみるまで、相手の性格も分からないなんて、そりゃあ恐ろしいですよね。そう言って、光る君は少しだけ、声を立てて笑う。
それから光る君は、今度は真っ直ぐに脩子を見つめた。
その目には真摯な光が宿っていて、脩子は口を噤むしかない。
「だけど僕は、あなたのことなら、よく知っています。あなたは人を、殺したりしない」
「……そんなこと、分からないじゃないか」
「分かりますよ。あなたは傍若無人に振る舞っているようで、本当はとても怖がりで、臆病な人だから」
「臆病……? 誰が?」
思いがけないその言葉に、脩子は心外だと言わんばかりに、片眉を持ち上げる。
だが、光る君はそんな脩子を見ながら、やはり小さく笑って言った。
「僕に言わせれば、あなたほど怖がりで臆病な人を、僕は他に知りませんよ。宮さまはいつだって、考えすぎなほどに考えて、限りなく低い可能性にさえ怯えている」
光る君の指摘に、脩子は思わず押し黙る。
自分の行動や思考を顧みてみれば、思い当たる節はいくらでもあったからだ。
脩子はもう、理不尽に命を奪われるのは嫌だった。
物の怪の仕業だといって、真相をうやむやにしたくないのは、犯人を野放しにされることが怖いからだ。
一方で、犯人の動機を理解したくないと思うのは、犯人に共感できてしまうことが、恐ろしいからだった。
もしも同じ状況に陥ってしまった時、自分も人を殺してしまうかもしれないと考えるのは、とても怖いことだと思うからだ。
あれは確か、初めて光る君から事件の話を聞いた時のことだっただろうか。
脩子は本当にふと、何気なく、漠然と思ってしまっていたのだ。
──あぁ、この時代でなら、完全犯罪も簡単に実行できるんだろうな、と。
ほんの少しの不可能性や、ちょっとした猟奇性。
それらを演出してみせれば、この社会はすぐに『物の怪のせい』だと解釈してくれるのである。
物の怪というものを信じていないからこそ、脩子の頭の中には『物の怪を利用する』という選択肢が、どうしたって存在する。
もしも、そんな人間が、誰かに殺意を抱いてしまったとして。
事件を物の怪の仕業と見せかけることが出来たなら、真相は完全に、うやむやになってしまうというのである。監視カメラも、指紋採取の技術も存在しないこの時代において、それはひどく簡単なことのように、脩子には思えてしまったのだ。
その考えに思い至った時、脩子は心の底からゾッとしたのを覚えている。
罪を暴いてくれる人間が、存在しないということ。
抑止力となりうるものが、己の倫理観だけであるということ。
脩子にはそれが、途轍もなく恐ろしいことに思えてしまったのだ。
光る君は、そんな脩子の内情を見透かしたような顔で、小首を傾げて微笑んだ。
「僕からすれば、宮さまの憂いごとなんて、ぜんぶ杞憂だと思うんですけどね」
「……どうして、そんなことが言い切れるの」
「そりゃあ、あなたが僕を、自分の番人としたからです。あなたは、僕にものの考え方を教えて、自分と同じ思考の出来る人間を、抑止力として育てたんだ」
もしもの可能性にさえ怯えて、そんなことをするような人が、人を殺したりなんてしませんよ。
光る君はそう言って、しょうがない人だなとでも言いたげに、苦笑してみせる。
「あなたはきっと、自分で思っているよりも、ずっと善良な人ですよ。もう何年も側で見てきたんだ、それは僕が保証します」
脩子はといえば、口をへの字に曲げて、黙り込むばかりである。
彼は、まるで聞き分けのない子どもを諭すように、殊更にゆっくりと言葉を紡いだ。
「だけどあなたが、それでもまだ不安だっていうのなら──これから先も、ずっとあなたの番人を、隣に置き続ければいいじゃないですか。ねぇ宮さま、そうは思いませんか?」
茶化すような口調とは裏腹に、光る君の黒目がちの双眸は、真っ直ぐに脩子を見据えている。
その眼差しは、たとえ何度断られたとしても、絶対に逃すつもりはないぞとでも言いたげだった。その癖、自分を売り込むプレゼン自体はあざといものだから、何ともタチが悪いなと脩子は思う。
「あなたが僕を、自分の抑止力となるように望んだんです。きっと、三途の川を渡り切るその時まで、僕はその任を全うしてみせますよ?」
脩子は光る君のその台詞に、降参だとばかりに嘆息する。
「三途の川、ね……。それって、もしかしなくても、そういう意味?」
「えぇ。僕は宮さまと違って、無自覚に思わせぶりなことは言いませんよ。それに、露骨すぎるくらいあけすけに言わないと、あなたには全く伝わらないみたいなので」
「さてはきみ、結構いろいろなことを、根に持っているな……?」
「いえ、それほどでも? 今まで随分と振り回されてきたなぁ、なんて、これっぽっちも思ってませんから」
光る君はそう言って、にっこりと笑う。
だが、その目はちょっと笑ってはいなかった。
脩子はといえば、素面でやっていられるかとばかりに、盃に残った酒を一気に呷る。酒精で思考をぼかして、この居た堪れない空気をどうにかしたかったのだ。
その顔のほてりは、羞恥か酔いか。
そこから先はもう、なし崩しだった。
【全話まとめ】↓↓
https://note.com/lush_auklet5374/m/m53e660023f92
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?