藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【最終話】
終
『女性は、初めての相手に背負われて、三途の川を渡るらしい』
平安時代に、そんな俗説が流布していたことを知っている人間は、現代において、果たしてどれ程いるのだろうか。
それを「ロマンティックだな」と感じるか「いや、地獄絵図かよ」と思うのかは、人によってそれぞれ明暗が分かたれることだろう。
それこそ、背負う方も、背負われる方も。
脩子はそんな現実逃避をしながら、片手で顔を覆っていた。
「仮にも初夜に「いよいよ進退窮まった」みたいな反応をするの、さすがに失礼だと思うんですけど。でもまぁ、宮さまらしいといえば、らしいのかな」
光る君はそう言って、腹這いで頬杖をつき、くすくすと上機嫌に笑っている。
「うるさいな……」
脩子は気まずさを誤魔化すように言い返すが、光る君は「往生際が悪いですよ」と、ますます愉しげに笑うばかりだ。
その余裕綽々といった態度には、つくづく可愛げがないというもので。
それがどうにも面白くなくて、脩子はついつい渋面を作ってしまうのだった。
時刻はすでに寅の刻、午前四時を回ったあたりだろうか。少しずつ、夜空の彼方が白みだす頃合いになっていた。
「もう少しこうしていたいけど、そうもいかないから。もう行きますね」
平安時代において、日が昇ってから男を帰すというのは、女人側の恥にもなる。
どこに出しても恥ずかしい宮姫に、今さら恥も外聞もないだろうに。彼は律儀にも、脩子側の名誉を尊重するつもりであるらしかった。
そうして光る君は、拍子抜けするほどあっさりと、褥を抜け出していく。
てきぱきと身支度を整えた彼は、脩子の寝所を出ていく間際、それは凄みのある笑顔で、にっこりとこちらを振り返った。
何やら圧のある笑みに、脩子はひくりと顔を引き攣らせる。
「これからはもう、人目を忍んで通ってくる必要も、ないですよね?」
「………………」
「もちろん三夜連続で通って来ますけど、問題ありませんよね? お餅、ちゃんと用意してくださいますか?」
「うわぁ、むちゃくちゃ畳み掛けてくる……」
「そりゃあもう。一世一代の妻問いですから」
平安時代の結婚というのは、男が女のもとに三夜連続で通ったのち、三日目の晩に、三日夜餅という祝餅を食べることで成立となる。そしてこの祝餅は、女側の家が準備するのが習わしなのだった。
光る君の表情は、いよいよ退路は塞いだぞと言わんばかりの、得意げな笑みだ。
非常に癪なことではあるが、脩子は渋々と口を開く。
「……責任は、ちゃんと取るわよ」
「うーん、その表現は、ちょっと釈然としないけど。でも、ちゃんと言質は取りましたからね」
光る君は、その言葉を待っていたとばかりに、それは満足そうに破顔する。
それから、彼は颯爽と踵を返して去っていくのだった。
やがて、一刻も経たないうちに、爆速で届いた後朝の文には、なんとも小癪な文言が添えてあった。
〝あくまでも形式として送っているだけなので、宮さまは無理に和歌を詠まなくても大丈夫ですよ。白紙で送り返してくれたって、問題ありませんからね〟
──とのことである。
後朝の文とは、別名『なかったことにするつもりはないからな』の文だった。
何故なら、初夜の事後にこれが届かないと、ヤリ捨てられたという意味合いになるのである。
また、届くのが遅いというのも「あー、私って微妙だったんだな……」と女側が思う羽目になる、なかなかに業の深い文なのだ。
確かに光る君の対応は、この時代において、非の打ちどころがないほどに完璧なものだったといえよう。
おまけに、和歌を苦手とする脩子に対してのフォローまで添えた、嫌味なまでにスマートな対応であるともいえる。
そりゃあ確かに、脩子は気の利いた答歌も詠めないけれど。
何だか昨夜から、光る君にいいように転がされてばかりのような気がして、非常に面白くないのである。脩子はむっすりと口を引き結んで、筆を取った。
とはいえ、何と書いてやったものだろう。
ちょっとくらい、意趣返しをしてやりたいものだった。
しばらくあれこれ文面を考えていた脩子だったが、やがては、先人の言葉を借りることに決める。自分ではろくな文言を思いつかなかったのだから、これはもう仕方がない。
〝三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい〟
烏が鳴き始めるよりも早く、帰って行ってしまうあなたへ。
この世の全ての烏を全て殺してでも、あなたとゆっくり朝を迎えたいものだ。
そんな意味にも取れるこの都々逸は、迂遠な言い回しの和歌よりも、よほど直截的で、どストレートで、生々しかろう。
これならさすがに、光る君も面食らうに違いないと、脩子は一人ほくそ笑む。
せいぜいこれを見て、赤面でもするがいい──などと、この時は思っていたのだが。
それは、三日夜の儀礼が終わってすぐのこと。
脩子は、居候の姫君たち共々、引っ越しをさせられる羽目になる。
引越し先は、光る君の所有する二条院だった。
「ただの意趣返しの冗句を、本気にする奴があるか!」
脩子がそう叫んだのは、言うまでもない。
(約108,000字)
fin.
あとがき
本作品は、note創作大賞2024に応募するために書き始めたものですが、最終話の投稿時間を見ると、2024/07/23/23:52……応募締め切りの8分前です。
ひぇっ、ギッリギリィィィ!!
何とか滑り込みで、無事完結させることが出来ました。
完結までお付き合い下さった読者の皆さまには、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
さて、本作を書くきっかけは、思えば小学生の頃にまで遡るかもしれません。
私の本名の由来は、紫の上です。妹の名前も、他の源氏の女君にちなんでいます。そういうこともあってか、小学生の頃には『あさきゆめみし』を穴が開くほどに読み込んでいました。でも、ある時ふと思ったのです。
「あれ、紫の上って、ぜんぜん幸せじゃなくない?」と。
たとえば、藤壺の宮が、桐壺帝と出会った瞬間から、桐壺の更衣と重ねられていたように。紫の上もまた、光源氏と出会った瞬間から、藤壺の宮に重ねられてしまっているのです。
だからこそ、当時の私は考えました。
「じゃあ、紫の上が幸せになるには、どうなっていれば良かったんだろうか」と。
そうして出た結論は「紫の上は、どう考えたって、光源氏とは結ばれない方がいい。光源氏が藤壺の宮との初恋をちゃんと成就させて、それで彼には、ずっと大人しくしていてもらうしかない」というものでした。
ですが、『源氏物語』本編において。
光源氏の視点では、藤壺の宮は出会った瞬間から、父親の嫁という立場です。
どう足掻いたって、彼が初恋を成就させることは不可能だという大前提がある。
ここが、書き手である紫式部のにくいところですね。さすがは構成力の鬼。
とまぁ、小学生の頃に抱いた「紫の上を幸せにするには、どうすれば?」という思いつきが、本作を書く原点になったことは、間違いありません。
折しも、今年の大河ドラマは、紫式部が主人公。「書くなら今年しかない!」と、思い立ったというわけです。
とはいえ、紫の上を幸せにしようと思うのなら、光源氏の初恋を成就させてやることが大前提になる。だけど、藤壺の宮が桐壺帝のもとへ入内してしまうと、その可能性も潰えてしまいます。
だったら、入内を拒否っちゃうような、はちゃめちゃな女を主人公にしてしまえ、と。
そうして生まれたのが、現代日本から転生してきた大学院生、脩子でした。
現代人の転生ということであれば、平安時代ならではの語句や調度品にたいする説明を、ナチュラルに挿入できるという利点もある。一石二鳥です。
一方、光る君に関しては、公式で「五歳年上のお姉さんに初恋を奪われてしまった、純情な男の子(少なくとも『箒木』帖の冒頭部分までは)」という設定があるので、そのまま流用させていただきました。
彼って、第二帖の冒頭までは、普通に真人間なんですよね。
『雨夜の品定め』でだって、光源氏は「あー、確かにそんな女は嫌だよね」とか「分かる分かるー!」みたいな感じで、一緒になって女性を品評していたわけじゃない。彼は基本的に、一歩距離をおいた聞き役というスタンスです。
よし、光る君はこの時点での人格で固定してしまえ、と。
そういうわけで、脩子と光る君というキャラクターは生まれたのでした。
若紫ちゃんは、一世源氏と現役皇族という強固な後ろ盾を得ることができ、ハッピーエンドです。
とはいえ実際のところ、平安時代の貴族たちの頭の中に「暗殺する」「弑殺する」といった選択肢は、恐らくありません。
何故なら彼らは、心の底から、怨霊を恐れていたからです。平安時代史というのは、すなわち怨霊に怯え続ける歴史でもありました。
それこそ、死刑制度そのものは存在するにも関わらず、朝廷による死刑の執行は、350年ものあいだ途絶えていたくらいです。彼らにとって怨霊とは、確かに身近に存在して、自分たちの生命を脅かす脅威でありました。
さて、ここでいう怨霊とは、深い怨恨を抱いたまま亡くなったり、非業の死を遂げた死者霊のこと。
とりわけ「生前に知名度が高い人 」であったり「政治のいざこざに巻き込まれて、死に追いやられてしまった人 」は、この怨霊になりやすい。
つまり、いくら目の上のたんこぶだからといって、光源氏を暗殺するというのは、自ら怨霊を生み出すようなものなのです。光源氏の暗殺は、怨霊になってしまう条件を、完全に満たしてしまっている。
だからこそ、弘徽殿の女御や右大臣といった貴族の頭の中には、光源氏の暗殺という選択肢はきっと無かった。それが、当時の文化や習俗、史実を踏まえた見方です。
多分、リアルではそっち。
でも、それじゃあフィクションとして面白くないよね、と。
だから、あえて本作では、光る君に対し「暗殺の可能性」を身にまとわせてみました。
ぶっちゃけ筆者は、『源氏物語』の研究者どころか、日本文学専攻卒ですらありません。フィクションだと割り切って、あえて創作した部分もあれば、勉強不足で間違ってしまっている部分もあるのでしょう。
それも込み込みで、フィクションとしてお楽しみいただければ、と思います。
私は、ラノベでの商業歴はありますが、キャラクター小説/ライト文芸というものに挑戦したのは、本作が初めてでした。
ですが、振り返ってみれば、総じて楽しく書くことが出来たと思います。
書き手が詰め込んだ「楽しい!」を、読者の皆さまにも共有することが出来たなら、これに勝る喜びはありません。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
伊井野 いと
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