藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【第14話】
第三章 花の夕顔、鬼はや一口に喰ひてけり
「足跡の主は、一体どうやって……誰の目にも留まることなく、廃院を出入りしたっていうのかしらね」
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「いっそ、廃院に棲みついた鬼が、肘から上をぱくりと喰らっちまった──そう考えた方が、納得がいくというものですよ。そうは思いませんか? え?」
そう締めくくった橘の少尉は、どこか投げやりな仕草で肩を竦める。
だが、脩子としては、どうしてもそれを首肯する気にはなれなかった。
「だからって、鬼、ねぇ……」
「でも、姿が見えないからこそ、鬼の仕業だっていうのは、確かにちょっと言い得て妙というか。そう思いません?」
「……それはまぁ、そうだけれども」
光る君の言葉に、脩子は渋々ながらも頷く。
鬼というのは古来より、人を食らうモノで、そして姿なきモノではあるからだ。
たとえば平安時代に成立した、最古の漢和辞書『和名類聚抄』において、鬼は次のように記されている。
〔和名於爾〕或説云隠字〔音於乍訛也〕鬼物隠而不欲顕形 故俗呼日隠也
つまり『鬼』は『隠』の字が転訛したものであり、物に隠れて形を顕わしたがらない、鬼の性質に由来するというのである。
他にも『箒木』帖では、鬼はこのように語られる。
「人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚のすがた、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおどろしく作りたる物」と。
これは雨夜の品定めの最中、左馬頭が絵の題材として挙げた文言であるのだが。
ここでは「目に見えぬ」とあることから、鬼はやはり「見えないもの」として認知されていたことが窺える。
その上で、いざ絵に描かれるとなると「おどろおどろしく」異形の姿であったようだとも、見て取れるというわけだ。
姿なき鬼が、夕顔の肘から上を喰らってしまった──。
そう解釈してしまえば、忽然と消えてしまった残りの遺体も、犯人の姿が誰の目にも留まらなかったことも、確かに理由を考えずに済むのだろう。
「でも、宮さまはそんな決着じゃあ、納得しませんよね」
「えぇそう、しない。したくない」
「それじゃあ、最後まで人の仕業を、疑ってかかりましょう」
きっぱりと言う脩子の言葉に、光る君は苦笑混じりの表情で頷いてみせる。
そんなやり取りを交わす二人に対し、橘の少尉はといえば「つくづく物好きなことで……」と呆れたように呟いた。
「えぇ、えぇ。こちらもとことん付き合ってやりましょう。あなた方の〝物好き〟によって、解決した事件も多いのですからね」
橘の少尉は、皮肉交じりにそう嘯いてから、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「いえね、不可能性をいったん脇に置いてしまえば、怪しい人物は存在するのですよ」
橘の少尉は、眠たげな二重瞼を吊り上げて、そう切り出す。
「何しろこの廃院から消えたのは、残りの遺体だけではない。実のところ、雇っていた下男も一人、忽然と姿を消しているというのです」
少尉が語ったところによると。
昨夜未明、女房が他の使用人たちを起こした時点で、その下男の姿はすでに無かったというのである。現状、その下男の行方は杳と知れないままらしい。
おまけにいえば、その下男は、昨夜の酒の提供者でもあるとのことだった。
「鷲男とよばれていたその下男は、分不相応にも、女主人に懸想をしていた──だなんて話もあるくらいだ。これは、他の下男たちからの証言ですがね」
下男ら曰く、鷲男が臨時就労で得た酒を献上したのも、ひとえに主人である夕顔に気に入られようとしていたからに違いない、とのことである。
いよいよもって、いかにも怪しい。
脩子と光る君は、横目に視線を交わし合う。
だが、橘の少尉は「えぇまあ、言いたいことは分かるんですがねぇ」と、どこか歯切れの悪い調子で言葉を続けた。
「とはいえ仮に、この鷲男が犯人であったとして、だ。この男が、邸内で左腕を切断した上で、残りの遺体を背負い、雪上に足跡を残しながら門まで歩いて行ったとして──」
「やっぱり、夜警の検非違使に見つかることなく、この廃院を出ることは不可能だ、と?」
光る君が、少尉の言葉を引き取ってそう呟いた。
脩子もまた「そうして、廃院を出ることが出来ずに、逆戻りをしたとして──」と言葉を継ぐ。
「結局のところ、鷲男と残りの遺体は、この邸内にないとおかしい、ということよね?」
「えぇ。この鷲男が鬼ではないのなら、ということにはなりますがね」
少尉はそう答えつつ、ガシガシと頭を掻いたのだった。
◇◆◇
「駄目だ、埒があかない。考えても分からないのなら、これはまだ情報が足りない気がする……。いったん別の切り口から考えよう」
脩子の提案に、光る君も「そうですね」と乗ってくる。
「それじゃあ、どうして犯人は、肘から下を切断したんだろう……」
自分だったら、どういう動機をもって、腕を切り落とそうなどと考えるだろうか。脩子はそう自問しながら、ゆっくりと思考の海に潜っていく。
個人的には、犯人の思考をトレースするようなやり方は、あまり好きではないのだが。背に腹はかえられないと、今は割り切るしかない。
「僕なら、物の怪のせいに出来るから、ですかね」
光る君は、そう答えながら小首を傾げる。
「ほら、手法が不可解な事件と同じくらい、凄惨性のある事件も、物の怪の仕業ということになりがちでしょう? 欠損って、『食べられた』っていう印象に直結しやすいからなのかな。でも、物の怪の仕業ってことになれば、検非違使の捜査もうやむやになる」
宮さまだって、同じことを考えるでしょう?
そう問われてしまえば、脩子としても苦笑するしかない。
物の怪という存在を、全く信じていない人間の思考回路としては、至極妥当なものではあるからだ。
ほんの少しの不可能性や、ちょっとした猟奇性。それらを演出してみせれば、この社会はすぐに〝物の怪の仕業〟だと解釈してしまうのである。
そのことを知ってさえいれば、自ずと『物の怪を利用する』という選択肢も、頭の片隅に生じうるというものだった。
「そりゃあ、私やきみのような人間なら、そう考えるだろうね。だけど、たとえば命婦なら、そうは考えない」
脩子はそう言って、ゆっくりと頭を振る。
光る君は小さく肩を竦めて「そうなんですよね」と軽い調子で頷いた。
「うーん。可能性としては、皆無じゃないんだけど、ちょっと蓋然性は低いというか」
「まぁ、そういうことよね」
光る君の呟きに、脩子は同意を示す。
そんなやり取りを見ていた橘の少尉は「つくづく恐ろしいことを考えるものだ」と呆れたように呟いた。
「物の怪を、利用しようなどとは……。そんなことをすれば、本物の物の怪にとり殺されるとは、考えないものですかねぇ」
そう言って、少尉は「おぉ、怖や怖や」と大仰に首を竦めてみせる。
だが、結局のところ、こうなのだ。
その時代の医学や化学の中で、まだ理解できない現象を〝物の怪のせい〟だと解釈することに慣れている、彼らにとって。物の怪というのは、確かに実在する隣人なのだ。
理解できない現象を、分からないなりに解釈して、折り合いをつけることを、脩子は悪いことだとは思わない。
ただ、そういう彼らだからこそ『物の怪を利用する』という選択肢は、なかなか出てこないというわけだった。
「でも、物の怪の仕業に見せかけるため以外の、腕を切り落とす理由って、なんだろう。何かありますかね?」
光る君の問いに、脩子は顎に手を当てて思案する。
蓋然性を考えるのであれば、腕を切り落とすことに、何かしらの利点や目的があったと見るべきなのだろうが。
「そうね……たとえば、軽量化とか?」
「あぁ、なるほど……。ということは、遺体をどこかへ運ぶ必要があったってことですかね? でも、うーん。片腕の肘から下を切り落としただけじゃあ、そんなに軽くはならないと思うんだけどな。無くなっているのは、肘から上の方であるわけだし……」
「じゃあ、体積を減らすとか? 遺体をどこかに押し込んで隠そうとして、片腕がはみ出ちゃったから、切り落とした……? いや、それもどうなのかしらね……」
二人して首を捻ってみるも、何だかいまいちしっくりこない。
光る君は「あ」と小さく呟いて、脩子の顔を覗き込む。
「じゃあ、少し観点を変えてみて。『確実に死んだと思わせることが出来る』っていうのは、どうです?」
「あぁ、それはあるかもしれない。現に私たちは皆、ずっと夕顔の君が亡くなっている体で話を進めていたものね。だけど、腕を落としても、生きていられるかというと──」
そこまで言って、脩子ははたと動きを止めた。
光る君もまた、ハッとした様子で目を見開く。
もしも、腕を残すことで、夕顔を死んだように見せかけたかったとするならば。
転じて夕顔は、生きていなければ意味がないのである。
たとえば、腕を切り落としたことによって、夕顔が死んでしまったならば。死んだように思わせるも何も、あったものではないからだ。
「そうなると、軽量化や、体積を減らして隠しやすくするっていう意味合いも、変わってくるわよね……」
「えぇ……ちょっとこれは、盲点だったな」
脩子と光る君は、揃って塗籠から母屋の方へと振り返る。
宴席の最中から、すっかり人だけを消し去ってしまったような母屋は、物音ひとつなく静まり返っていた。
光る君はぐるりとあたりを見回してから、やがて床に転がる二つの甕を覗き込む。そうして、片方の甕を手に持つと、その口を脩子の方へ向け差し出した。
脩子はといえば、無言で袖を除け、試しに片手をその甕に突っ込んでみる。
「多分……手首を曲げたり、こぶしを握った状態であれば、女性の肘から下なら納まったでしょうね」
甕の中はすっかりと乾いてしまっているが、内側に触れてみても、酒特有のベタつきは一切ない。匂いを嗅いでみても、酒精の香りもしなかった。
光る君を仰ぎ見れば、もう一方の甕の中身をこちらに見せる。中にはとろみのある液体が、まだ二割ほど残っているようだった。
確かに、片腕の肘から下だけを切り落としたとしても、遺体全体はたいして軽くはならないだろう。
肘から上の遺体といえば、ほとんど人ひとり分と大差ない。片腕を切断したところで、遺体はそれほどコンパクトにはならないのである。
けれど、切り落とした側の腕はといえば。
確かに軽くなり、体積も減り、隠しやすくもなるというわけだ。
この時代、死体はその辺に転がっているのである。代わりの腕は、いくらでも調達できるというわけだった。
「これは、僕の仮説なんですけど。この事件って、かなり野蛮な『芥川』だったんじゃないかな、と……」
光る君はそう言って、苦りきった表情で脩子を見遣る。
「あぁ、伊勢の?」
「えぇ」
光る君は短く諾とだけ答えていう。
脩子はといえば、甕の中に突っ込んでいた手を引き抜いて、袖を元に戻しながら、苦笑いをするばかりだった。
『伊勢物語』とは、『源氏物語』以前に成立した歌物語だ。
平安初期に実在した貴族である、在原業平を思わせる男を主人公としたこの歌物語は「むかし、男ありけり」という冒頭句で始まることで有名だった。
『芥川』は、古典の教科書にも取り上げられることの多い、とりわけ人気のエピソードの一つである。その内容は、次のようなものだった。
昔ある男が、自分とは身分の釣り合わない姫君を、やっとのことで盗み出すことに成功する。
ところが、その逃避行の最中のこと。夜も更け、雨や雷も次第に激しくなってきてしまう。このまま進むのは難しいと判断した男は、一晩どこかで休むことにした。
そうして、男は荒れ果てた小屋に姫君を押し込み、自分はいつ追手がきても迎え撃てるように、武器をもって小屋の入り口に座り込むのだが。
小屋には鬼が棲んでいて、姫君を一口に喰らってしまう。姫君の悲鳴は雷雨によってかき消えて、男は朝になるまでそれに気づかなかった──というようなエピソードである。
要するに光る君は、姫君が鬼に喰われたオチとかけて、冒頭の部分を、犯人の動機ではないかと言いたいのだろう。実際、下男も一人、姿を消しているわけである。
脩子は「そうかもね」とだけ答えて、小さく肩を竦めるのだった。
これは余談だが。奇妙なことに、この世界には、かつては在原業平も実在したし『伊勢物語』も存在するのである。
一見すると不可思議にも思えるが、それも『源氏物語』の大前提を思えば、然もありなんというものだった。
何故なら『源氏物語』は、あくまでも実話という体で語られた物語であり、現実と地続きの世界観になっているからだ。
だからこそ〝いづれの御時にか〟という冒頭文は『具体的には明言しないけれど、過去に実在したとある帝の時代のことですよ』という語り出しになっているのである。
おまけに初巻『桐壺』からして、宇多天皇や紀貫之といった、実在の人物の名前が平気で出てくるくらいなのだ。要は、そういう歴史の延長線上に、光源氏たちも生きていたんですよ、というのが『源氏物語』の基本スタンスなのである。
脩子が最初、この世界を物語だと気づかなかった所以も、この辺りにあったりするのだった。
だが、そんな懐かしい過去を思い出していれば。俄かに背後から、咳払いの音が聞こえてくる。
見れば、橘の少尉が重たげな二重瞼をさらにぐっと眇めて、こちらを見据えているようだった。脩子と光る君はぱちくりと目を瞬いて、はたと顔を見合わせる。
橘の少尉は、勿体つけるような調子で口を開いた。
「よろしい、腕を切断する動機に、妥当性はあるでしょう。なるほど、外で切断した腕を持ち込んだのであれば、この廃院内で残りの遺体が見つからないのも、納得だ。ですがね、お二方とも──大事なことをお忘れではありませんかな?」
「あ」
「あ」
「えぇ、左様。たとえその姫君が生きていたとしても、なのですよ。彼女を背負った下男は、雪上に足跡を残しながら、どうやって検非違使たちの目を掻い潜り、逃げおおせたというんです?」
淡々とした調子でそう問われて、二人は再び顔を見合わせた。
言われてみれば、確かにその通りである。
【全話まとめ】↓↓
https://note.com/lush_auklet5374/m/m53e660023f92
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