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異国の地で交通事故に遭って死にかけた話②

左方向から、バイクに乗った私たちに向かって
乗用車が突っ込んできた事故。

ルカは左足の膝下をバイクと車に挟まれ、複雑骨折していた。
けれどそれ以外、他は大した傷もなかったという。

私は横からの衝撃で、左の大腿骨骨折。
更に
左脚の膝の骨とひざ下の骨が外れて(?)、ぶら~ん状態。
そして
うつ伏せで地面に叩きつけられたので、肋骨を7~8本骨折。
ついでに
意識が戻ったときに自分で剥がしたんだけど、
頬から顎にかけて、赤いかさぶたが、ペりぺりぺりっと剥がれる程度の擦り傷があったようだ。

後は、手にもダメージを負っていたらしい。
革の手袋は表面が擦りむけて、血の染み跡もついていたけど、
意識が戻った時にはもう、手はきれいに治療されていて、指も普通に動いてくれてた。

事故のあと、ルカは私たちを待っていた友人に自分で電話をかけた。
その友人はその頃、私の日本人の友達と付き合っていて
(そのつながりでルカと出会ったのだけど)
事故の夜もこの二人は一緒にいたから、
夜中にも関わらず、すぐに私たちが運び込まれた病院まで来て、
私たちとは会えなかったけど、病院のスタッフから私たちの状態の事情説明を受けてくれた。
そしてこの事故について、他の友達たちへの広報担当になってくれた。

事故当夜の手術で、ルカは左ひざ下を真ん中から開かれ、
複雑骨折した骨の小さ過ぎる破片だけを取り除き、そのまま骨を固定するため、足の肌に直接、外から金属製のブリッジを設置されると(サイボーグか何かみたいに、足から直接、金属パーツが「生えてる」状態)、普通病棟に運ばれた。

この手術のとき、
下半身だけの麻酔を打たれ、頭は普通に起きていたルカは、手術室で自分の膝下が切開されている様子を、自分の上半身と下半身を隔てているカーテンの隙間から直接、
そして首を伸ばせば見られる位置にあったモニターを通じて見ながら、
「この破片はどうする?」
「小さすぎる。捨てろ」
といった医師同士のやり取りを興味深く見学していて、
どうやら薬物投与もされていたので、自分の手術を妙に落ち着いて見ながらも、
妙な精神的ハイ状態で、
「あの~、その骨の破片、捨てるんなら俺もらってもいいですか?」
とカーテンに手をかけながら先生方に聞いたら、先生方はぎょっとしたらしく
(そりゃそうだろね…)
「大丈夫だから大人しくしてなさい」
と、起きた上半身を無理やり寝かされ、今度はきっちりとカーテンを閉じられてしまったそうだ。

私はその夜を含め、意識が戻るまでのあいだに少なくとも2回、手術を受けたという話を後から聞いた。

運び込まれた時点では私の方は重症だったので、私は普通病棟ではなく、集中治療室のほうに留め置かれた。

おそらく事故から二日後くらいに、ルカの友人の彼女 = 私の日本人の友達が、私に面会許可が下りると同時に、すぐに会いに来てくれた。

たぶんこの時のことは、映像での記憶がある。
目に映る、集中治療室の天井の記憶。
薄暗くてわずかな光しかない場所で、何か音か…声が聞こえるので、その方向(横)に顔を向けたら、友達がスポットライトに照らされるように座っていて、なにか話しかけてくれていた。

私は自分が置かれている状況については冷静で、パニックにはならなかった。
自分がそこにそうして居ることをそのまま受け入れて、ただ淡々と、その場にいた。
もちろん何も理解してはいなかったけど、
「ここは一体どこ?どうなってるの?私に何があったの?」
といったような疑問はいっさい何も、頭に浮かんで来なかった。
夢か現実かもはっきり分かっていなかったのもあると思う。
あるいは、顕在意識で何も憶えてなくても、無意識のほうは全てを「見て」いて、状況を把握していたからなのかも知れない。(?)

(もし催眠術にかけられて、事故について憶えていることを話しなさい、って言われたら、自分が何を話すのか興味がある)

どこか暗い場所にあるベッドに横になっている自分が、緑色の布でくるまれているだけで、素裸で何も着ていないのに気づいたとき、それが嫌で、不安な気持ちを感じたけど、
その状態をなんとかしてくれと要求できるような強い感情や、はっきりとした意識や考えは、いっさい湧いてこなかった。

このへんの時系列はよく分かっていないんだけど、
私たちの事故の連絡を受けた日本人の友達たちも、イタリア人の友達たちも、面会時間に合わせるように仕事や用事を調整して、たくさん会いに来てくれてたらしい。

きっとみんなびっくりして、
心配して、来てくれたんだと思う。
中には、リアニマツィオーネでの私の姿にショックを受けて(直訳だと「蘇生」だものね)、二度と来られなくなってしまった友達もいた。
(回復後に本人たちからそう聞いて、怖がらせちゃってごめんね、と謝った。)
その後、退院するまで、たくさんの友達たちに助けてもらった。
感謝の言葉が見つからないほどに。

そういえばね、
いまこれを読んでくれてる人のなかで
もし脳科学の研究をしている人がいたら、
飽くまで私個人の、一つのケースとして報告したいと思うんだけど

私は、自分自身にはほぼ記憶が無くて、
意識も、意志も一切はっきりしていなかった、集中治療室にいたあいだ
お見舞いに来てくれた人たちに対して
イタリア人の友達にはイタリア語で、
日本人の友達には、日本語で対応していたんだって。

脳って、たぶんやっぱり機械的な働きに近くて、
「(今は)この言語で話そう」という
本人の思考なり、意識なりを通さなくても、
耳がイタリア語で話しかけられたのを聞いたら、
私の脳内の、イタリア語担当部分が反応して、
日本語で話しかけられたら日本語担当部分が反応して、
その都度、無意識に、でも自然に、
それぞれの言語を使い分けて対応してくれるものらしいです。

人間の脳の働きって、おもしろいよね…

話は戻って
私は、事故後に最初に意識が戻ったときは比較的普通の状態で、人と話も出来たけど
その翌日か、翌々日に
容体が急変して、再び意識を失ったのだという。
折れた肋骨が肺を圧迫していたのが急に悪化して、自力で呼吸が出来なくなり、
口から肺までチューブを差し込み、呼吸を補助する措置を採るのと同時に、
チューブ挿入の痛みを緩和するために、モルヒネを相当量、投与されていたそうだ。

それを初めて知ったのは、退院したあとルカに、
「リアニマツィオーネにいた時、不思議な映像を見ていた記憶がある」
と話したときに、
「それ、きっと君がモルヒネをたくさん打たれてた時だと思うよ…」
と教えてくれたときだった。
(それまで自分ではモルヒネを投与されてたことを知らなかった)

ちなみにそのとき見ていた映像をまだよく憶えている。
真っ白い空間に、黒い、植物の蔓みたいなものが、まるで生き物のように奥へ奥へとけっこうな速さで、右へ左へとうねりながら、上方と、進行方向への二方向へ向かって成長させて行きながらどこまでも進んで行く ーーー というものだった。

この、肺が圧迫されて自力で呼吸が出来ていなかった時期、私の日本人の友達は集中治療室の医師から
「この患者さんはもしかしたら、亡くなってここを出るか、回復するのか、自分たちにも判らないから、患者さんの日本のご家族へ連絡した方がいい」
と告げられたので、
私の家族に国際電話をかけて、知らせてくれたそうだ。
(どうもありがとう…)

この話もずいぶん後になってから聞いたので、
私は臨死体験の千載一遇のチャンスを得ていたのか…!
と悔しく思った。

だってこのとき、臨死体験は出来なかったんですよ…
(したら憶えてるよね?憶えてないってことは、しなかった、ってことだよね?)

どうせそこまで命が危ない状態になったんなら、
滅多にない機会なんだから
そこ(臨死体験)までやっとこうよ、わたし~。
せっかくのチャンスだったのに、勿体ないなあ、もう…
と自分に文句をつけたい。
(でも二度目のチャンスはもう要らないです★)

集中治療室には、一般病棟の患者は入れない。
見舞客も、無菌室に入るような指定の服と、髪を覆うカバーをつけて、
一人ずつしか、
そして短時間しか、患者のそばに行けない。
ルカは自分で私の様子を見に来ることが出来なくて、心配でやきもきしていたと話してくれた。

毎朝、手術をして下さった先生方の訪問を受けるとき
Come stai? 「具合はどうだ?」
と聞く先生方に
Come sta la mia ragazza? 「彼女の具合はどうなんです?」
と逆質問していたくらい苛立っていたから、自分は感じの悪い患者だったかも知れない、と反省していた。

何日間かに及ぶ危篤状態のあと、
尽力して下さった先生方や看護師さんたちのお陰で、私の容体は回復に向かった。

ルカはずいぶん後、私たちがもうリハビリも終えたあとに
「もしあのまま君が死んでいたら、俺は今ごろ精神病院にいたと思う」
と真顔で言ったことがある。
それくらい真面目に命が危ぶまれていたのだそうだ。
本人は全くそんなこと知らなかったけど。

肺の圧迫で済んでいたから、生き残れた。
もし折れた肋骨が肺に突き刺さり穴が開いていたら、私は死んでいたのかも知れない。

その状態からは少し回復した後だと思うけど、
静かに寝ていたところを急にお医者さんたちに上体を起こされ、
血痰を吐かせなければならなかったらしいのだけど、そんな事こっちは何も分からないまま、
いきなり背中を乱暴に、何度も叩かれて、
ぼうっとして、音も感情も何もかも、自分の意識のはるか遠くに感じている感覚の中でも、
その痛みだけは直接的で、
すごくリアルで、
立体的な痛覚を、激しく突かれるような衝撃を伴って感じたので
意識ははっきりしてなくても
感情は生きていて
その痛みを加えてくる手に、すごく腹が立って、
同時にすごく悲しくて、つらかったことを憶えてる。
「なんでこんな乱暴なことするの?」
「やめて!痛い!」って。

その血痰の症状が落ち着いた後、新規の患者さんのためにベッドを開けなくてはならなくて、私はしばらく、他に誰も居ない、たった独りの陸の孤島のような、忘れられた部屋みたいなところに移動されて、
ひたすら眠っていたのでそこに何日いたのかは分からないけど、
その後ようやく、普通病棟に移されることになった。

看護師さんたちは皆親切だった。
私が理解できるかどうかはともかく、いつも、これは何々だからねとか(注射や点滴など)、これから私に何をするのかを話しながら、ケアをして下さっていた。

その中の一人の
集中治療室担当の若い看護師さんが、
まだ頭がぼうっとしている状態の私を普通病棟に移す時に、
「内緒だよ。君の恋人に会わせてあげるからね」
と小声でささやき、
おそらくそのまま最短距離で次の病室には向かわず、わざと「寄り道」をして他の階で一度エレベータを降りると、
ストレッチャーに載せられ、処置室フロアの廊下で何かの順番待ちをしていたルカの前をわざわざ通ることで、
私たちを事故の日以来、初めて会わせてくれた。

私はほとんど、ルカはおろか自分自身の存在すら忘れかけていたほど、自分の記憶や感覚を長いこと、手からこぼれ落としたまま、失くしていた。
「それ等」を以前、持っていたことも憶えてないくらい、自分の心とか精神が、自分の実体から遠く離れている感覚だった。
でも
ルカの顔を見た瞬間、
無意識に、私は彼に向かって両腕を伸ばしてた。
勝手に身体がそう動いた。
ルカも、私を認めると跳ね起きるように身を起こし、身体をこちらへ伸ばして、ぎゅっと抱きしめてくれて、
正確に言うなら互いの腕が届く範囲でだけ
二人とも無言で、何秒間か抱き合っていたけど
看護師さんの
「ごめんね、もう行かなくちゃいけないけど、彼女は6階の病室に行くことになったから、きみは明日からいつでも彼女を訪問できるからね」
という言葉に、二人で看護師さんに
「Grazie」とお礼を言って、
「A presto」(ア・プレスト 「すぐにまた会おう」)
と両手の指を絡ませ合って、お互いの顔を必死に見つめ合いながら別れた。

このとき初めて
自分がいま病院にいて
自分の身体は回復する必要があるのだと、
まともに自覚したと思う。

なんとなく眠りから少し醒めたようで、
しばらく失っていた感覚と、意識が
自分の手の中に戻って来つつあるのを感じた。

このとき
思いやりある計らいをしてくれたこの看護師さんはマルコといって、
後で私たちの、大切な友達になってくれた。


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡