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来し方を語りたく ①


noteを始める動機のひとつに
自分のかた
人生の経験
を書き記す、というのがありました。

リアルでは、noteで書いているような事は
人に話さないから

私という人間が ほんとうは
こんな経験を持ち
こんな考えを持っている ということを
(〈ほんとうのわたし〉の姿を)
この世界のどこかに残しておきたい
という思いがあり、

20世紀末から21世紀初頭の時代に生きたひとりの人間が
何を感じ、何を考え
どんな経験を積み重ねたのか
(大げさだな💦)

心理学的なサンプル提供としてもそうだし

こんな記録がもしかしたら
誰かの なにかの
役に立つかもしれない… という小さな期待

そんな考えのもと

そして何より、私自身のために

「実録」「ケーススタディ」
として記しておきたいと思いました。

最終的にどのくらいの文章を、
幾つくらい書くのか、
自分でもまだわかりませんが
この『かたを語りたく』タイトルの記事内では
しばらく勝手な『自分語り』をしますことを、
どうかおゆるしください。

尚、内容に関しては
快/不快 いずれかと問われれば、
おそらく 不快寄り なものになるかと思われます…

共感力の高いかた、
似た経験をお持ちの方は、
気分の落ち込み
フラッシュバックなどに襲われる可能性があるので、
どうか気をつけてお読みくださいね
(⌒-⌒; )ゴメンネ
(それか、このタイトルの時の私の記事は避けてー)


*****

かたの かへり見すれば なまなかに
我が秘事ひめごとの で来たらんとす

来し方を かへり見すれば 人知らぬ
継ぐべきひびは 綺羅きら唐草からくさ

*****


わたしは
内臓の一部機能が壊れたまま
生まれて来た。

製造物で言えば
『初期不良』ってやつだ。

生まれて数ヶ月目から
しょっちゅう 原因不明の40度級の熱を出し、
しょっちゅう 病院に運び込まれていたと聞く。

といっても、元気な時も普通にあって
〈ときおり誤作動を起こす〉
という不具合だったそうなので

都内の有名で大きな病院を含め
いくつかの病院に検査入院を繰り返しても、
すぐには原因が判らなかったそうだ。

じっさい幼少期の私の記憶の中には4箇所の、
別々の、病室の風景がある。

そんなある日、
伯母の一人が母に電話をかけてきて
新聞に私の症状によく似た子供の医療相談が載っている
と教えてくれた。
家で宅配にしていた新聞とは違ったので
母は駅までその新聞を買いに行き、
読んでみると
「たしかに似ている」と思ったという。

どの病院で調べてもらっても
何年も原因が判らないままの状態に
半ば疲れ切っていた母は

お返事が頂けるとの期待もせぬまま、
その記事に回答を寄せていたお医者さまに宛てて
私のことを手紙に書き、
その病院の住所を調べて、送った。

そのお医者さまからは、
驚くほどすぐにお返事が来たという。

「お嬢さんを連れて当院に来てください」
と書かれてあり、
私は有難くも、その先生に診ていただけることになった。

神奈川県のこども医療センター
という病院にいらしたそのお医者さまは、
当時アメリカ留学から戻ってきたばかりの
まだ若く、優秀なお医者さまで、
幸運なことに
私の病気が何か、治すにはどうすればいいかをご存知だった。

「手術になります、すぐに入院させてください」
素早い診断を下すと
その後、入院後のいくつかの検査を経て
手術も自ら執刀してくださり、

私は
このT先生に命を救われ、
生まれてからずっと繰り返していた病院生活からもやっと解放され、
「健康な子」になれた。

新聞記事を読んで、わざわざ母に電話して教えてくれた伯母、
ダメもとで手紙をしたため、救いを求めてくれた母、
見知らぬ他人からの手紙にすぐに返事を書き、私を救おうと病院に呼び寄せて下さったT先生、
私が健康になることを願って、祈り続けてくれた身近な人たち…

全て恩人だったと思っている。


じつは私の幼少期の病院とのご縁は、
他にもある。

この病気とは全く別の理由で
私は満1歳になるのを待って、
身体に人生最初のメスを入れられていた。

母が私を産んだ産院の、赤ちゃんの取り上げ方に問題があったらしく
同じ時期にその産院で生まれた赤ちゃんは、
私を含め
全員が〈斜頸しゃけい〉になってしまっていたそうだ。
(笑い話だけど笑えない💧)

斜頸が判明してからは毎日
母は私を背中に負ぶって、何ヶ月もマッサージに通ったけど、
残念なことに私の首は、それでは治ることはなく
結局、襟元えりもとの位置にメスを入れる手術が行われた。

その手術のために看護婦さんに私を手渡したとき、
普段、比較的いつも機嫌が良く
あまり泣かない赤ちゃんだった私が
急に、まるで火がついたように激しく泣き出したので、あの時はとても驚いた
と母が話した事がある。


生まれてから最初の4年間に、二度の手術。

あまり「人並み」ではない体験。

物心つくかつかないかの時期だったけれど
いろいろなことを憶えているし、
記憶に強く刻まれている光景もある。


私の親はいつも「人並みに」こうしろ、
「普通の子は」こうなのに、どうしてお前は
と、常に文句を言う人たちだったけど

最初から「普通ではなかった」子に
それを求められてもね…

私は小さい時から
子供だからといって、大人たちに全て頼れるわけじゃない事を学んでいた。

あれは
母か祖母が狭い個室に、ずっと一緒に泊まり込んで付き添ってくれていたから
たぶん2歳くらいの入院時、

毎日、寝る前に
どんなに泣いて逃げようとしても、
嫌だと訴え続けても、

お医者さまと看護婦さん、母の
大人3人から
力づくでベッドに押さえつけられ

大きな注射を
誰にも代わって貰えず自分の身体で
大きな恐怖と
強い痛みと共に、
毎晩受けなければならなかった記憶は

「誰も私を助けてくれない」
「自分の味方は自分だけしかいない」
という意識を、
絶望感と共に脳に刻み込んだと思う。


大人は常に子供を助けてくれる。
大人は何でも知っていて、
子供には必ず、良い事、正しい事しかしない。
大人は判断を間違えない。

ほんとにそうかな?
言わんとする事はわかるけど、
実際はそうとも言えないんじゃない?

口にはしなくても、かなり小さい頃からそう感じていた。

もちろん
子供だったから、大人の深い想いが理解出来ていなかったのも事実。

あの毎晩の注射は、結局何だったのか?
という疑問は残るけど、
少なくとも私を救おうとして為されていた医療行為だったと思う。

実際のところその注射は、私を健康にはしなかったし、
私の脳にとっては
強い恐怖と、深い絶望感、
孤独、
そして人間不信の「記録」として
後の人格形成や
考え方のベースとなった「原体験」の一つではあるけれど。


その記録/記憶は後に
成長するにつれ
自分の両親との心の確執もあり、

大人は、本当はいつも正しいってわけじゃない。
万能というわけでもない。
それなのに彼らは
〈自分達が正しいと思ったこと〉を一方的に押し付けて来る。

公正さやこちらの意思や感情、考えは一切考慮せず、
聞こうともせず、
ただ闇雲やみくもに「従え」と強要してくる。
まるで暴力や恐怖で支配しようとする悪魔みたいだ…
と感じるようになっていた。

「可愛げが無い」
と呼ばれた子供の思考の素地はこのように
反抗心よりも
実体験に裏打ちされたものではあったけど
両親は、私の性格に問題があると信じていたようで

この子は性格が捻じ曲がっている
恐ろしい子だ
と化け物扱いされていた。


なんで私はそんなにもよく
親に怒られていたのだろう…
と思い出してみる。

お手伝いをしない
素直に言う事を聞かない
強情ごうじょう
気が利かない
子供らしい明るさがない…

私は入院生活ばかりしていたせいか
何時間でも飽きずに、一日中本を読んでいるのが
幼い頃からの習慣で

本を読んでいると、意識が本の世界の中に入っているので
現実世界で何か言われても
(特に離れた場所からだと)
自分にそれを言われているとは、気がつかないことがあった。

一方、うちの両親は
これをしなさい、と命令した時
すぐに読んでいる本を投げ捨てて、言われた事を即座に行う子供を求めていた。

それなのに私は
ただでさえ、何か言われているのに気付くのが遅いから
親は何度も声を荒げて、怒鳴らなくちゃならない上に

読書を邪魔されるのが嫌いで
命令を聞くにしても
せめてそのセンテンスが終わる程度の、
文章の区切りのいいところで切り上げないと
気持ちが悪すぎて、
その本を置くことが出来ない子だった。

もちろん、そんな何ページも、じゃない。
けれど2~3行くらいは、その文の終わりを求めて、
スピードを早めながらも、読んでしまっていた。

本人は、早くその用事に取り掛かれるように、そうしている。
でも親の目から見るとそれは、反抗的な態度。

〈言いつけてからの初動が遅い〉
それが許せないから、怒りがエスカレートする。

遅かれ早かれ言われた事をする(した)のだから、それでいいはずでしょ?
というのが私の見解。
すぐにしろ、と言っているんだ、どうして素直にそうしない(反抗する)んだ!
というのが親の意見。

子供の頃の私には、それが解っていなかった。
その用事をし終えても
まだ私を罵り続ける親が理解出来ず、彼らの怒りを持て余していた。

認識のズレというのは
話し合ってみて初めて、顕在化/可視化 すると思う。
(これって全ての人間関係に共通する原理原則よね)

親も私も
全く何も話し合わず
お互いへの不満をひたすら募らせているだけだったけど

そんなふうに、
私もたしかに、素直に言う事を聞く子ではなかった。
親が真に求めている事がわからない、理解力のない子だった。
だから
「出来損ない」と吐き捨てるように言われる事も、多かった。

お手伝いをしなかったのにも理由がある。
なまけたいわけでも、家事が嫌だった訳でもなく
(おばあちゃんのお手伝いは大好きだった)
いつも私に不満で、すぐに何か嫌な言葉をぶつけてくる親のそばには
近付きたくなかったし、居たくなかった。

よく頬を引っ叩かれていた。
目をぎゅっと瞑るタイミングは完璧で、その反射神経は良かったと思う。
怒鳴られたり突き飛ばされたりも、よくしてた。
叱るというよりは、侮辱することを楽しむような
悪口じみた、キツい言葉を投げつけられるのも日常茶飯事。

それに加えて
幼い時からの入院生活は
私のさまざまな『耐性』を、強くたくましくきたえてくれたので(笑)

4~5歳で、もう私は

そう簡単に泣いたりしない、
感情の起伏があまりない、
常に冷静沈着で
情緒の安定しまくった、
ふてぶてしい子供(💦) になっていた。
( or  一種の精神疾患ですかコレ…?)

なにか泊まり掛けのイベント時に
親が近くに居ない、と不安になって泣き出す同い年の子たちの中で
「あ、わたしは慣れてますんで」とばかりに、
ひとり泰然たいぜんとしていたこともあったらしい。

親がいなくても全然平気。
幼少期ですでに、鋼鉄の自立心を備えていた。

けれどうちの両親は、
子供らしくない子供で
無邪気な愛らしさに欠ける私に、不満たらたらだった。

「どうしてお前は、あそこの家の子みたいに◯◯じゃないんだ!」
常に誰か他の子と比べて、お前は劣っているとなげかれる。

比べない場合でも

「普通、病気を治してもらったら、それに感謝して
自分もお医者になって、病気の人を助けようと考えるのに
お前は将来医師を目指そうとは考えない。
恩知らずで、心に優しさもない人間だ」

「お前のせいでうちは大変だった。
お金もかかった。
付き添いや通院で、さんざん苦労させられた。
小さい頃からあんなにあちこち、病院に連れて行って
お前を救ってやった。
助けてあげたのに、お前は感謝していない。
親に感謝して、早くあの時の治療代を全部、働いて親に返せ」

幼少期から何度も繰り返し、そう言われて育った。

「金食い虫」
「お前なんか産まなきゃよかった」
「お前なんか将来誰からも愛されない」
「お前は親を喜ばせない、育てる楽しみがない」
「子供らしい可愛さがぜんぜんない」

他にもいろいろ。

でも、毎日こんなことを言われて
地獄のような(笑) 生活をしていたわけじゃない。
誕生日やクリスマスにはちゃんとプレゼントをもらえていたし、
学校にも楽しく通っていたし、家族旅行だって行ってた。

とりあえずはうちも、普通の家庭だった (と思う)。
私を叱る時の、彼らのセリフがなぜか
軒並みこういうものだった、というだけで。

手が出ていたのも
よく聞く話だけど、
彼らは『しつけ』のつもりだったのだろうと思う。

ああいった言葉を
思春期から言われ始めたなら
もう少し知恵もあって
反論も思いついたのかもしれないけど

なんの知識も知恵もない幼少期から言われ続けていたので
子供心にも不快感や違和感、
何となくの反発心は持っていても
私はたぶん、それらの言葉を
丸ごと受け入れていた。


でもお医者さまや看護婦さんや親に感謝していないなんて、
どうして勝手に決めつけるんだろう?
ということだけは心底不思議に、
そして同じくらい
不満に感じていた。

自然なものとは思われない、〈違和感〉のような感じ。
私の気持ちや心なんか、これっぽっちも知っちゃいないくせに。


そしてこれも考えてみた。
どうして私は
「将来自分もお医者さんになろう」と思わなかったのか。

自分の心を解きほぐしてみてわかったことは

先生方に感謝はしていても、
私にとっては、病院というところが
もう二度と、出来れば可能な限り、戻りたくない場所になっていた
ということ。

生まれて最初の4年間で、もうじゅうぶん。
あの空気も、あの匂いも、雰囲気も。
辛く、苦しい記憶を思い出させるあの場所は…

これからの人生、なるべく病院には近付かずに済む生活をしたいから、
私はお医者さんも、看護師さんも目指したくない。

それだけの話だった。
どれだけ「恩知らず」で「優しさがない」と糾弾きゅうだんされようとも。


小さい頃に一緒に住んでいた祖母(ちなみに母方)は
いつも笑顔で接してくれて、
私をとても可愛がってくれていた。

でも、大人同士で何か取り決めがあったのかは知らないけど

私が親に何を言われてても、
何をされていても、
そこにいて、それを見ていた祖母は 
私をかばって助けてくれたりはしなかった。

後から慰めてくれることもなく
放っておかれた。

それがうちの〈普通〉だった。

そんな時はおそらく
幼い日の学びをまた新たに、
言葉ではなく感覚で、
胸に刻んでいたと思う。


「私の味方は、私しか居ない」


私にとってそれは、
リアルな真実だった。





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その点、どうぞ予めご了承ください。

この内容の文章を綴るだけで、精神的に精一杯で、
一つ一つのコメントに、きちんとご対応できる自信がないからです。

でもこの記事をきっかけとして
みなさんが感じた事、思い出した事、
同じような経験、
今の感情や、お考えなどが
心の奥から出て来たら
もし良かったらどうぞご自由に、ご遠慮なく書いて行ってください。

みなさんがそれを書いて下さって、
それを読む人がいて、

経験や想いが
「自分だけじゃなかったんだ」と思えたり、
または知らずにいた、その時の相手の考えや想いに気づいて
「そうだったのか…」と思えることは

人知れず苦しんでいる〈誰か〉にとって、
救いになると思いますから…





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Luriha
書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡