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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 秋・壱1

 他者の気配のない空間。足元は砂地。しばらく雨は降っていないようで、歩くたびに、乾いた砂の音がする。深遠の耳には馴染みある、普通の人間はいない世界の音。

 風は凪。日差しはなく、明るめの薄曇り。遠くで鳥が鳴いている。目指しているのは、秘居と呼ばれる庵。歴代の脱厄術師達が立ち寄り、時代の生んだ宝を蓄えてきた場所。

 脱厄術師が生きるにも、当然先立つ物が必要となる。しかし術師は定職に就けない。ゆえに、古き宝を金に換え、必要最低限の物資を手に入れている。

 庵は色づき始めた楓に囲まれ、ひっそりと、眠っているようだった。誰がこしらえたのか、小さな庭がある。池も作ろうとしたのか、地面はいびつな丸に掘り下げられ、大小さまざまな石が敷き詰められている。水はない。楓が散る頃には、見事な赤い池が出来上がるのだろう。もしかしたらそれで、池は完成するのかもしれない。

 庵に入ると、深遠は最初に目についた箱を目指し、迷いなく進んだ。古物に詳しくはないから、迷う必要もない。歴代の術師の目利きを信じるのみ。

 棚から下ろした桐箱には、数輪の花をいけられそうな壺がひとつ。優美な文様の描かれた、なめらかな表面に、職人の丁寧な仕事のあとを見た。傷や欠けがないのを確認し、再び桐箱に収め、背の荷物に加える。そしてすぐに、庵を後にした。

 自分が持ち帰る物に、いかほどの値がつくかはわからない。正一は過去に、古くて姿形が完璧であれば、値段はいとわないという買い手もいる、と言っていた。以前持ち込んだ掛け軸は、暮らすに申し分ない家一軒と、ほぼ同じ価値で売れたのだとか。

 目的をひとつ果たし、しばらく歩いた後、深遠は川べりに腰を下ろした。水筒を口に傾け喉を鳴らす。空腹には、ほど遠い。しばし休んで、また行こう。そう決め、大地に背中をつけた。

(向こうは、冬の終わりに近い頃だろうか)

 冬。それは、吹雪と豪雪を宿す維知香が、心待ちにしている季節。皮膚を刺すような冬の朝の冷気は、彼女のお気に入り。肌着に近い軽装で、裸足のまま雪上を駆ける維知香を、上着を持って追いかけたこともあった。台風の日も、庭に出て風雨と遊ぶような子どもだった。

(風邪を引かないように……随分と無意味な心配をしたものだな、あの頃は)

 災厄と通じるようになってからも、深遠は幾度となく維知香の体調を気にかけた。災厄に守られているとわかっていても。その度に維知香は、弾けるような笑みで大丈夫と答えた。その時はあきれるばかりで、胸を引っ掻かれるような痛みなど感じていなかった。それなのに今は、維知香の笑顔、姿形、声、体温、何を思い出しても、胸に痛みが走る。

(……駄目だ、行こう)

 素早く身を起こした時、対岸に他者を見つけた。

 対岸に立つのは、男。大きな荷物を背負っている。深遠は、その姿かたちに見覚えがあった。

 男は深遠に向かって手を振ると、両手を水面にかざし、一筋の結界を築いた。木組みの橋のように見えるそれを、男は軽快な足取りで渡り切る。そして深遠に、大きな笑みを見せた。

「久しぶり。明治以来か?」
「ああ。変わりはないか」
「少し老けたかもな。俺も、深遠も」
「くだらないことを。せいぜい髪が伸びたくらいだろう、互いに」
「相変わらずだなあ。愛想のひとつくらい覚えてくれよ」
「生まれた当時を思い出せば、確かに老いたと言えるかもな」
「昔過ぎるだろ。赤ん坊と今じゃ、まるで別人だ」

 白い歯を見せて笑う男に、深遠は目元を綻ばせた。

 男の名は、梛道行(なぎみちゆき)。生まれは江戸後期。同じ時代に生まれたもののほとんどは明治の幕開けを待たずに生を全うしているが、道行はまだ、少年を思わせる雰囲気を纏っている。

「そういえば、俺も成人とやらになったぜ」
「それはめでたいな。まだまだ子どもかと思っていたんだが」
「やっと深遠の二つ下まできたよ」
「次に会う時には、追い越されているかもしれんな」
「会ったばかりで次の話なんてするなよ。久しぶりに師匠に会えて、俺は結構嬉しいんだけどな」
「そうか」
「……終わりかよ」

 ぼそりと言いながら小さく笑い、道行は結界の橋を無に戻した。そして深遠に視線を向ける。

「あのさあ……お前もできるようになったな、とか、成長したな、とか、褒めるところだろ? いいんだぜ、遠慮しなくたって」
「あの程度の技は当然身につけているものだと……確かに、仕上がりが速く、形も安定していたな。上出来だ、とでも言ったところか?」
「褒められた気がしねえ……あーあ、もう少し進むつもりだったけどやめた。なあ、急いでないなら一緒に飯でもどうだ? どうせ、ろくなもん食ってないんだろ?」
「今朝、干し餅を食べたばかりだ」
「今朝!? そろそろ夕刻だぜ。食が細いのも相変わらずか……干し野菜の粥でも作るよ。たまには誰かと食いたいんだ」

 深遠の承諾を待たず、道行は大きな荷物を下ろし、火を起こす段取りを始めた。


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