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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐3

 深遠の胸中など知らず、維知香は、ひと仕事終えた開放感に包まれている。ごく普通に、散歩にでも来たのかのように、大きく息を吸い込み、木漏れ日に目を細めながら木々を見上げ、緑の香りを楽しんでいる。

「ねえ、深遠」

 維知香の手が、深遠の作務衣に触れる。ぐいと袖を引っ張り、顔を寄せ、他に誰もいないというのに声を潜めた。

「そろそろ、あそこの中を覗いて見たいんだけど……駄目かしら?」
「駄目だ」

 即答。わざとらしく頬を膨らませた維知香を、深遠は無言で見据える。

 維知香が【あそこ】と表現したのは、罠の後方にある洞窟。その奥には、結界の歪みがある。【あちら側】と【こちら側】を繋ぐ数少ない出入り口として、あえて歪みを閉じずにいる。洞窟の入り口には幾十もの結界を施しており、零念が入り込む余地はない。

「どうしてなの? さっきの見ていたわよね……前に言ってたじゃない。私を宿災として認めたから、あそこのこと、結界の歪みの場所を教えたって。だったらもう」
「認めているし、信頼している。先ほどの祓いも実に見事だった。君にあの場所を教えたのは、危険な場所でもあるからだ。幾重に結界を張っても、稀に引き込まれることもある。君に宿るものが勝手に反応を示すことだってあるかもしれない。危険とわかっていれば、君自身が常に注意を払い、回避できるだろう?」
「それは、そうだけれど……でも私は」
「いずれ時がくればと、何度も言っているはずだが」
「わかっているわよ。でも貴方と一緒ならいいじゃない。ちょっとくらい覗かせてくれたっていいじゃない!」
「まだその時ではない」
「じゃあいつになったらその時が来るの? 明日、明後日? それとも一年後? 十年後? 私がおばあちゃんになってから!?」

 作務衣を掴んだ手に力を込め、維知香は追求する。普段から激しさを見せる人間ではあるが、今日は少し、様子が違う。深遠はそう感じ、静かに維知香の手を解いた。

 維知香の目。真っ直ぐ向かってくる黒い瞳。深い。深過ぎて、真意が見えない。

「……君は、何を焦っている?」
「そりゃあ焦るわよ。だって……だって深遠は、いつまで経っても………」

 沈黙。作務衣の袖が解き放たれる。維知香はうな垂れ、唇を噛み、言葉を探っているように見えた。

 感情の高ぶりを誤魔化さない維知香が言葉に詰まるなど、珍しい。深遠は少し身を屈め、その顔を覗き込む。しかし維知香は、深遠と目を合わせずに踵を返した。

「先に帰る」
「……一人で大丈夫か?」
「自分の家の裏山よ」

 そう言い残し、振り返りもせず、維知香は来た道を戻って行った。

 山中に一人。深遠は大雨のように注ぐ蝉の声に包まれながら歩き始めた。裏山に施した罠は一箇所ではない。零念の気配は感じないが、できる限り確認しなければと足を速める。

 しばらく歩くと、生き物が朽ちる匂いが深遠の鼻をついた。その発生源が何であるのか、深遠はすぐに理解した。ゆえにこの目で確かめなければならないと、場所を探し求める。

 辿り着いたのは、普通の人間なら決して足を踏み入れないであろう、渓谷のほとり。そこに人の亡骸が横たわっていた。暑さのせいか腐敗が進み、既に一部、白骨化が始まっている。服装からして男性のようであるが、年の頃はわからない。

(ここに引き寄せられるのは零念だけではない、か。そういう巡りのある場所なのだな)

 深遠は遺体の傍らに座し、手を合わせた後、大きなブナの根元を掘り、遺体を埋めた。墓標となる物は置かず、今一度手を合わせ、場を後に。

 ふいに訪れたのは、正一への思い。死に目に会えず、埋葬にすら立ち会えなかった自分が、見ず知らずの人間を弔う。まるで懺悔のようだ。それもさだめと息を吐こうとした瞬間、ぞわりとした気配が全身を駆け巡った。気配の正体を探ろうとして感じたのは、悪寒。寒い。まるで寒風が体の中で吹き荒れているかのよう。

 ーー 助けて!

 深遠の中。響いたのは間違いなく維知香の声。

 ーー 深遠様 お戻り下さい!

 続いて聞こえたのは灯馬の響き。普段穏やかなそれは今、明らかな緊迫を宿している。

 深遠は直感に従い走った。足を緩めず、結界を施した洞窟に駆け込む。入り口からの光が届かなくなっても一心に、奥へ奥へと向かう。

 ーー 灯馬! 灯馬、聞こえるか? どこにいる?)

 問うてしばし待つも答えは返らず。深遠は洞穴の壁に手を触れ、ひとつ息を吐いて、両瞼を閉じた。

(我願う。君と結びし守りの印よ。進むべき道を示せ。ただ一点の光を示せ。我、この身に持てる力を以って、その場へと赴く。その一念に、微塵の偽りなし)

 念じて間もなく、目を開いた深遠の前に、極小さな光の点が現れた。そこに向かって手を伸ばす。そう思い描きながら、足を進める。

 伸ばす手の向こう
 漆黒に浮かぶ白
 白が何処へかと流される
 待て行くな
 足を前に繰り出し手を伸ばす
 掴め
 この手を掴め!


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