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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐4

 灯馬の白は、洞窟の奥へ奥へと流される。苦悶に歪む灯馬の顔。その胸元には、維知香の姿。顔を手で覆い、身を丸くしている。

「維知香! しっかりと目を開いて俺を見ろ! こっちだ、戻りたいと念じろ。強く、強く念じろ!」

 顔を覆っていた手を除け、維知香は顔を上げた。

「深遠! 私、私……」

 灯馬の胸に抱かれた維知香。しかし自らを抱きかかえる存在を認識していないかのよう。恐怖と困惑に支配された姿が、深遠の鼓動を加速させる。

 失ってなるものか

「維知香、聞こえているか!?」

 深遠の呼びかけに、維知香は縦とも横ともなく頭を振り、再び両手で顔を覆った。同時に、深遠の手に痛みが走る。冷気は小さな鏃に姿を変え、深遠に向かって次々に飛んでくる。

「塞ぐな! 感情を塞ぐのではなく、鎮めるんだ。君が災厄を鎮めるんだ! ここは我々の居場所ではない、ともに戻ろうと伝えるんだ!」
「聞こえない、聞こえないの! 災厄の声が……全然聞こえない……」
「耳ではない。災厄の言葉を聞くのは耳ではないだろう? いつものように、君の深部で、心で、心の全てで聞くんだ!」

 深遠が諭すも、維知香はきつく目を閉じ、はっきりと首を横に振った。その瞬間、漆黒が白を一層包み込んだ。

「灯馬! 彼女の中の災厄と同調してくれ!」
「しかしそれは」
「同時に術を仕掛ける。少々荒いやり方だが、それしかない。頼む!」
「……承知いたしました」

 険しさに満ちていた灯馬の顔。ふとそこに浮かんだ、柔らかな笑み。

 灯馬は、ゆっくりと維知香の顔を覗き込み、静かに声をかける。

「維知香様……さあ、私の目を見て下さい。ほら、ゆっくりと、瞼を持ち上げて……大丈夫です。貴方は深遠様を……彼を信じているのでしょう?」

 もはや上下左右もわからぬ漆黒の中、灯馬の響きは穏やか。それが心に染み入ったのか、維知香は、ゆっくりと瞼を持ち上げ、灯馬と視線を交えた。

 途端、灯馬の瞳は色を変えた。濃藍から血を思わせる赤へ。維知香は灯馬の胸元に沈み、遠のく意識の中で、白い輪郭と向き合った。

 あなた だれ?

「灯馬と申します。初めまして。よろしければ、少しご一緒しませんか?」

 あなたと?

「はい」

 いっしょに?

「ええ。ほんの僅かな時間ですが」

 うれしい ありがとう

 深遠に刺さっていた冷気の鏃は消え、空間を支配していた刺々しい気配は去り、漆黒は白によって吹き飛ばされる。

 春風に似た穏やかな流れが洞窟内を満たし始め、灯馬と維知香の体を、深遠のもとへと運び始めた。

 徐々に近づく二人に、深遠は両手を伸ばす。その手には、梵字に似た文様が浮かび上がっていた。灯馬の手にも、同様の文様が。それは共鳴するかのように輝きを放った。まるで磁石のように、ふたつの文様は引かれ合う。

 伸ばした深遠の手に、灯馬の手が触れる。すぐさま深遠はそれを握り、抱きかかえるように灯馬と維知香を受け止めた。

「灯馬! 大丈夫か?」
「ええ、この通り」
「……すまない。よく耐えてくれたな……感謝する」
「礼には及びません。貴方が大切にしているものは、私にとっても大切なものですから……維知香様がご無事で、何より」

 灯馬は静かに笑って見せ、自分の胸元で目を閉じている維知香に顔を向けた。そして深遠に顔を振り、さあ、と言いたげに、維知香を深遠の腕に託した。


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