見出し画像

宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐5

 槙家の縁側。ヒグラシが夕暮れを告げている。座敷に敷かれた布団で、維知香が静かに眠っている。

 深遠と灯馬は庭に。十歩ほど離れて向かい合い、深遠は灯馬に念を飛ばした。額、と念じれば灯馬の額に。首、と念じれば首に。薄く光る紋様が、静かに浮かび上がる。

 数か所試し、深遠は灯馬に問いを投げた。

「どこか、異変を感じないか?」
「はい、問題ありません」
「そうか……すまなかったな、本当に」
「謝罪の言葉など必要ありませんよ。どうしても、と仰るのなら受け取っておきますが、私は、私の役割を果たしたまでですから」

 深遠に柔らかな表情を見せる灯馬。その足元に、影はない。夕陽を浴びても、庭先の外灯に照らされても、決して描かれない。

「久しぶりに、貴方の役に立ったと感じました。私のようなものでも存在価値がある、ということですね」
「そんな言い方をするな。君はすでに、人よりも尊い存在だと言ったはずだ……本当に、感謝しているんだ。だから、頼むから、そんな言い方はやめてくれ」
「冗談ですよ。貴方はあまり私を頼らないので、少し意地悪をしてみただけです」
「冗談も意地悪も、やめてくれ」
「……少し、心が疲れましたか?」
「わからない……いや、そうかもしれない。怪我をしたのも、久しぶりだしな」

 深遠は手に負った傷に目を落とした後、座敷に横たわり、未だ両瞼を閉じたままの維知香を見つめた。そうしながら、まだ微かに痛みの残る手を意識する。

 災厄の攻撃を受けたのは初めて。維知香の中にある激しさが、どれほどのものであるか身をもって知った。それは学びになったが、同時に、己と維知香の未熟さを知ることにもなった。胸の内に芽生えた悔しさは、時間を追うごとに大きくなっている。

「深遠様……」
「何だ?」
「ご自分を、責めていらっしゃいますか?」
「当然だ」
「責任感が強いのは良いことだと思いますが、時には他者を叱るのも大切かと……空間の狭間にて災厄が放たれる事態になれば、どうなるのか……それは、とうに話しているのですよね?」
「ああ。物心ついた頃から、何度もな」
「知っていて禁を犯すのは、無知よりも罪深い……包み込むだけが優しさではないと、私は思いますよ……余計なお世話ですかね」
「いや、思うところがある」
「ではもう、私が申し上げるまでもないですね。私は、貴方が弔った方に手を合わせに……維知香様は、そろそろお目覚めになるかと。それでは」

 深遠に頭を垂れ、灯馬は音もなく消えた。

 白い輪郭の消えた庭に佇んだまま、深遠は天を仰ぐ。

 夕焼けの赤と、夜の始まりを彩る紫紺。その繋ぎ目は見事に融合。その色彩は、どんなに優秀な画工の腕をもってしても、再現不可能。

(人と自然は、何故あんな風に溶け合えないのだろう。俺が自然に近い存在であれば、災厄は攻撃をしなかったに違いない……俺は、ただの人に過ぎない。ただの人は、決して自然とひとつにはなれない)

 脱厄術死は宿災の守護。なれど災厄の心はわからない。どれほど維知香のそばにいようと、ただの人間は災厄の心を制御することはできない。だからこそ、維知香の意識を高めておかなければならない。

 縁側から座敷へ移る。その気配によってか、維知香の瞼が、ぴくりと動いた。

「維知香……聞こえるか……そろそろ目を開けてはどうだ?」

 維知香の枕元から二尺ほど離れた場所に座り、深遠は目覚めを促す。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?