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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・弐3

 深遠の脳裏に、幼い維知香の姿が甦る。災厄と通じるのは早かった。三歳の頃にはもう、宿るのもの気配を覚え、まるで自分の内にいる自分であるかのように、話しかけていた。人前では話さないように、と何度も言い聞かせた。宙に向かってなにかを諳んじている姿は、はたから見れば奇異。しかし維知香は、今でも声を出して災厄と会話をするのだという。もしかしたら、維知香の友は、自らの内にあるものなのかもしれない。他者には決して話せない、生涯の友。であるならば、他者に同様の関係を求めない気持ちは、理解できる。

 深遠は記憶を遡った。自分は、脱厄術師というさだめに、どう向き合っていたのか。同じさだめを持つ者や、それに理解を示す者としか過ごしてこなかった。数多くの人間が住まう地に定住したことはなく、物心ついた時には父親とともに、こちら側とあちら側を行き来していた。思えば初めから、【受け入れている】環境にいたのだ。維知香のように、何も知らない者達の中に身を置いたことはない。ゆえに、本来の自分を偽らなくて済んだ。しかし維知香は違う。少なからず、偽らなければならない。台風が運ぶ湿った風に心地よさを感じたとしても、暗雲広がる空に心躍ろうとも、それを悟られないよう平然と、もしかしたら、怖がって見せているのかもしれない。

「……君のほうが大人なのは、当然だな」
「ん? 何かいった?」
「独り言だ」
「話かけてくれたかと思ったのに……もっと話かけてくれたったいいのよ。深遠にかくすことなんてないしね。それに深遠の声、大好きなの。一日中ずうっと聞いていたいくらい。ひとり言だっていいわ。せっかくだから、もっと大きな声でどうぞ」
「どうぞと言われて言えるものでもない……団子を食べ終わったら話そう。食べながら話すと、喉につかえるぞ」
「はあい」

 本当に、朗らか。深遠は、維知香の何気ない言動に、心地よさを覚えることもある。しかし、それは危険であることを、理解している。

 常にひとりであれば、恐怖は忍び寄らない。ゆえに他人と過剰に親しくなろうとは思わない。しかし心のどこかに、他者を求める自分がいる。ひっそりと、静かに、息を潜めて存在している。維知香に友人を作れと諭した裏には、誰かの記憶に自分が刻まれていたいという、渇望があるのかもしれない。維知香に自分の考えを伝えることで、維知香の記憶に刻まれようとしているのかもしれない。

 あちら側から戻り、誰かに名を呼ばれると、自分が【そういう名の人間であること】を自覚する。なぜか、安堵を覚える。おかしな話だ、と毎回思うが、人間は、他者によってのみ己を認識することができる、そういう生き物なのではないか。あちら側では、誰にも会わず、言葉を発せず、ただ、任のみを全うすることがほとんど。もし、想定よりも長い時を過ごしてしまえば、こちら側に戻った時、自分の名を呼んでくれる人間は、存在していないだろう。そうならないという保証はない。あちら側で、自らが果てる可能性もある。誰にも気づかれずに。

 深遠の視界の端で、維知香は団子を食べ終え、満足そうに息を吐いた。見た目は明らかに子どもだが、いつの間にか心の中に大人の思考が入り込み、それを独自の解釈で育てているようだ。

 彼女なら、どう考えるのだろうか?
 どう解釈するのだろう?

 名を呼ばれて安堵するのは、おかしなことだろうか? などと問えるわけもなく、深遠は失笑を噛み殺し、目を閉じた。

「ごちそうさま! 美味しかった。ねえ、深遠は食べないの? お団子、固くなっちゃうわよ」
「然程腹は減っていない」
「やっぱり話をごまかすために買ったのね」
「今、減った」

 起き上がり、深遠は春を模したような三色の団子に視線を移す。その指が串に伸びる前に、維知香の細い指が、そっと串を持ち上げた。

「はい、どうぞ」
「……ありがとう。いただきます」

 深遠は、維知香の指に触れないよう団子を受け取り、隣からの視線に気づかないふりをしながら、団子を頬張った。


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