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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 秋・参1

 菊野を送り届け、深遠は門の前で頭を垂れた。高ぶりは菊野と並び歩くうちに、己の深部へと身を潜め、今は揺るぎない感謝の念が、自然と顔に滲む。

 天には立待月。それだけでも視界は保てるが、一定の距離を置いて佇む街灯の明かりも加わっている。夜を仄かに照らすそれらが、今宵はなぜか温かく、行く手を照らす以上の役目を果たしているように思える。

(誰かとともに住まうというのは、温かいのだろうな)

 菊野とともに屋敷に上がれば、維知香の顔を見ることもできた。しかしやめた。送りついでではなく、明日、改めて会いに行こうと決めていた。

 昼間、灯馬と意を交わした河川敷に差し掛かる。流れは青空の下で聴くよりも繊細で、虫の声と混ざり合い、秀逸な旋律を奏でている。ふと足が土手に向かおうとしたが、深遠は意識して、自らの動きを制した。凪いでいた風に、季節に似合わぬ香りが紛れ込んだから。

(これは、雪?)

 雪片が舞い落ちる直前の、冷えた薄灰色を思わせる香り。まさかと思って来た道を振り返ると、維知香の姿が目に映った。

「こんばんは。昼間私が言ったこと、もう忘れたの?」

 維知香は膨れた顔を作り、直ぐに笑顔を見せる。帰るのなら声をかけてくれと、昼間、確かに言われた。

「すまない。屋敷には上がらなかったんだ」
「知っているわ、ちょっと意地悪してみただけ……ごめんなさい」

 謝罪の言葉を放つも、維知香はどこか楽しげ。深遠の側まで進み、河川敷に顔を向ける。

「夜の川も綺麗。昼間より水の音が良く聞こえる。川底の石をなぞる音まで聴こえそう」
「俺も、そう感じている」

 深遠の言葉に、維知香は目を見開いて見せる。何かを確認するように深遠の目を見つめ、沈黙。数秒後、大きな瞬きを見せ、再び河川敷に視線を。

「時間はある?」
「大丈夫だが、君は戻らなくて良いのか?」
「追いかけてきた相手に戻れなんて無粋よ。少しでいいの、一緒にいたい……一緒に、いて欲しい」

 維知香は河川敷に顔向けたまま。音を繋げる気配はない。深遠は静かに、維知香の手を取った。

「足元に気をつけて……ゆっくり行こう」
「ありがとう」

 土手を下り、川べりまで進む。どちらからともなく足を止め、空間を満たす音に包まれる。心地良い。そう感じ、深遠が両瞼を閉じそうになった時、維知香の響きが宙に混ざった。


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