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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱4
声を荒げず事の成り行きを見守った正一は、首を振り、やれやれといった動きを見せる。
「着くなり騒々しくて……何とも難しい年頃ですなあ」
「お気になさらず」
「この三年、あの子なりに我慢していたんだと思います。貴方の任は理解しているようで、それゆえ、どう足掻いても会えない状況というのが、何とももどかしかったようで……あの着物、十歳の子が着るには大人びた色合いでしょう? でも久しぶりに貴方に会うならあれがいいと言って、妻の若い頃の訪問着を仕立て直したんですよ」
「そうでしたか……私も、あの時分は子どもに見られることを嫌ったものです。誰にでも訪れる時期なのでしょう」
「子どもなんですがねえ、こちらにとっては、まだまだ……」
正一は苦笑ともとれる笑みを浮かべ、中庭に面した座敷に深遠を招き入れた後、着替えを、と言い残して場を去った。
雨はやみ、空は明るさをたずさえている。深遠は、中庭に視線を飛ばした。庭の一角を彩るツツジの群れ。満開には数日早い。
(満開のあれを見たのは、いつだったか……)
記憶を遡るが、確かにこの時とは思い出せず、深遠は両の瞼を閉じた。そして昨夜のことを思い出す。維知香に会う前日には、必ずある文章を頭に響かせる。昨夜はそれを、初めて文字にした。
宿災(しゅくさい)の守護 身に纏う結界はあれど 宿る災厄無し
命繋がれし途に於いて災厄身を離れ 因って脱厄(だつやく)と称されり
脱厄に生まれし者 次元に浮かびし歪みを捉え いつしか其の繕いを生業とす
術を持ちたる者 脱厄術師(だつやくじゅつし)と名を改め 時に人身皆無の次元に赴き歪みを繕う
其の地 時の移ろい緩やかなり 故に戻れば 迷い人の体をなす事多々あり
深遠は自らの筆跡を思い出し、それを綴った手に視線を落とした。特段皺が目立つこともない、若年の肌。しかし筆跡は、着実に年を重ねている。達筆とまではいかないが、字の勢いに、青さはない。
宿災の守護
脱厄術師
語ることで受け継がれてきた真実を、文字とするのは禁忌とされている。なにゆえに自分が禁を犯したのか、自問するも答えは見つからなかった。
脱厄術師。生まれながらに特殊な結界をまとい、守られている。業火に取り巻かれようと、氷山に閉じ込められようと、命は危機を迎えることはない。しかし強い守りを持って生まれた者には、それなりの試練が課される。
脱厄術師は、他の結界に対し親和性を持ち、拒まれることなく結界を超えることができる稀有な存在。古来より、人智を超える事象に対し、結界という手段をもって守りを固めることは少なくなかった。結界を施した術師がこの世を去っても結界は残り続け、少しずつ摩耗し、いつしか【なかったもの】となる。しかし、強い念が込められた結界は、ほころびが生じれば効果が転じてしまうこともある。最も恐れるべきは、【なにものかの侵入を阻むための結界】に、歪みが生じること。しかも原因が【こちら側】ではなく【あちら側】にある時。原因を突き止め、歪みを正すすべを持つのは、脱厄術師のみ。
深遠がその任を全うするよう己に命じたのは、十五の時。時の流れの異なる空間を往来しながら、江戸後期、明治、大正、歴史上で、そう表現される時代を生きてきた。そして昭和に足を踏み入れた。しかし深遠の外見は、いまだ二十歳そこそこといったところ。いかに【こちら側】の時が急流であるのか、戻るたびに思い知らされる。
今回、深遠が【あちら側】で過ごしたのは三ヶ月程度。それが【こちら側】ではおおよそ三年の月日となる。維知香が言い放った通り、互いの三年は大きく異なる。待つ三年と、待たせる三年。変わっていく者と、変わらない者。姿だけではなく、心の内も。
(故に戻れば迷い人の体をなす事多々あり……か)
【こちら側】で過ごす時は、現実であってそうではないようで、脳に刻まれた記憶は、都合の良い作り物のようにも思える。己の深部にある景色、音、匂い、肌触り。全て本物であったのだと証明できるものはない。自らを信じる他ない。
(あちら側が、俺の真の居場所なのか)
己に問いを投げるも、答えが見つからないうちに、廊下の奥から賑々しさが近づいた。
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