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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱5

 盆を手にした割烹着姿の女が二人。同じく盆を手にした男が一人。一番に座敷に上がり、品の良い笑みを浮かべたのは、正一の妻・菊野(きくの)。

「いらっしゃいませ、深遠さん。お待ちしておりましたのよ」

 深遠が頭を下げると、続いて体格の良い男が白い歯を見せた。

「お元気そうで何よりです」

 正一と菊野の三男・吾一(ごいち)。続いて、吾一の妻・桜子(さくらこ)が丁寧な礼を見せ、はにかむような笑顔を深遠に向けた。

「お久しぶりでございます。先程は、維知香がとんだご無礼を……申し訳ございません」
「いえ、どうぞ、お気遣いなく」

 頭を下げた深遠に、菊野は着席を促した。穏やかな笑顔で茶と菓子を並べる。

「どうぞ、ゆっくりなさって下さいな」
「有難うございます。どうか、お構いなく」
「構うなって言うのは、無理な話ですわ。随分と久しぶりですもの。みんな待ち侘びておりましたのよ。一番は、維知香ですけどね。あの子は深遠さんの戻りを本当に楽しみにしていて……ですから、先程の粗相は大目に見てやって下さいな。あれも甘えの一種とお受け取りいただければ……本当に可愛らしいったらないわ」

 軽やかな笑い声を響かせ、菊野は、ねえ、と息子夫婦に同意を求める。

 吾一と桜子は、共に複雑そうな笑みを見せながら、盆に乗った皿や椀を卓に移す。その様子に小さく息を吐いた後、菊野は今一度、深遠と顔を合わせた。

「私は息子しか産んでおりませんので、娘を持つ親の気持ちというのは、わかり兼ねます……まあ、お察し下さいな」
「畏まりました」

 落ち着き払った深遠の響きに、菊野は一瞬驚いたような表情を見せ、すぐにくすくすと笑う。その陽だまりのように温かな音色に、足音が重なった。

 現れたのは、一升瓶を抱えた正一。何とも嬉しそうな表情を携えながら、深遠の対面に腰を下ろす。

「いやあ、良い日ですなあ……こんな日は、昼間から好きなだけ呑んでもお咎めなし。なあ、菊野?」
「ええ、結構ですよ。でも、酔い潰れて深遠さんに呆れられない程度に、お願いしますね。昨夜も相当お飲みになられたのでしょう?」
「昨夜の酒は仕事の酒。ちっとも美味くなかったよ。ただ酔っただけさ……今日のこれは、祝いの酒だからね。美味いに決まっているよ」
「お味の話は私にはわかりませんわ。好きなものを、好きなだけお呑みになって下さいな……そうそう。うっかり残してしまったら、私に下さい。煮物に日本酒を入れると、旨みが効いて美味しく仕上がりますからね」
「もったいないことを! これはね、滅多に出回らない最高級の大吟醸だよ……さあさあ、深遠さん。食事の前に、一杯いかがですか?」

 正一は一升瓶を愛でるように撫でながら、卓上の猪口を目で示した。

 深遠は正一の誘いに会釈を返した後、座布団を離れ畳に直に座し、深く頭を垂れた。

「改めまして……本来ならば早急に戻りの挨拶に参上すべきところを、大変失礼いたしました。この度も無事、戻って参りました」
「やめて下さいよ……参りますなあ、本当に……頭を上げて下さい。戻られた祝いです。呑みましょう! ああ、吾一。お前も一緒に。ほら、座って」
「私も? よろしいのですか?」
「お前は、いずれこの家を継ぐ。深遠さんとは、長い長い付き合いになるんだから」
「はい! それでは……ああ、何だか緊張しますね」

 そう零した吾一の声に正一の響きを見つけ、深遠は顔を戻した。目尻に皺を寄せた笑顔もまた、正一に似ている。

「深遠さん?」

 ふいに耳を突いたのは、菊野の響き。深遠が顔を向けると、菊野は夫と息子との間に視線を走らせた。

「今、主人と吾一が似ていると思ったのでしょう?」

 楽しそうに、嬉しそうに。そんな気配を放つ菊野に、深遠は素直に頷きを見せた。菊野は頷きを返し、言葉を繋ぐ。

「色々なものが父親と重なる、そんな年なのよねえ……吾一が深遠さんと初めて会ったのは……あら? いくつの時だったかしら? 嫌だわ私ったら、すぐに思い出せないなんて、恥ずかしい」
「母さん……」
「あら、ごめんなさい! これじゃあ、いつまでたっても宴が始まらないわね。では、私共は失礼しましょうか。ところで、維知香は? どこかでふて腐れているのかしら? 桜子さん、心当たりある?」
「いいえ……探して参ります」
「お待ち下さい」

 廊下に踏み出した桜子を、深遠の声が追う。

「私が参ります。当てがありますので、どうかお任せ下さい……どうか先に始めてください。すぐに戻りますので」


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