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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参1

 朝日が描く白い筋。カーテンの隙間から入り込む輝き。汗ばんだ体を起こし、維知香は窓辺へと進み、風の通り道を作る。

 時刻は午前五時。空はすっかり朝の様相。夜の涼しさを僅かに残した風は部屋に入り込み、日めくりの暦をはためかせた。維知香は、いざなわれるように暦の前に進み、昨日の数字を静かに破る。

「あれから三日経った…………三日も? 三日しか?」

 三日間というのが短くあるのか長くあるのか、維知香は判断しかねていた。深遠がこちら側にいるというのに、顔も見ず、声も聞かずに過ごすのは初めて。以前なら起床してすぐに、否、夢の中でまで深遠を思っていたのに、今は、その姿を思い描くのが辛い。五感が思い出す、全てが辛い。

 深遠への思いが募りに募ると、維知香は思いを書き留めるようにしている。伝えたい時に限って本人は目の前にいないし、思いを共有できる相手もいない。だから、あとで自分自身で、【あの時の自分】の思いに共感することで、気持ちを紛らわせる。

 十歳の春、深遠が戻ってきた日の思いも、まだ机の引き出しにしまってある。

 おかえりなさい。
 やっと戻ってきたのね。
 長かったわ。
 毎日毎日、あなたの気配を探ったのよ。

 どうしてすぐに会いに来てくれないの?
 とってもすてきな着物を作ってもらったの。
 早くあなたに見せたいのに。

 私、背が伸びたのよ。
 あなたの顔に少し近くなった。
 まだぜんぜん追いつかないけれど。
 背の高さも、すごす場所も。

 追いかけても、追いかけても、届かないのかな。
 だけど、せめてこちら側にいる時は、私のそばにいてね。
 あなたのそばに、いさせてね

 読み終えて、維知香は静かに目を閉じた。自分の記憶の中に生きる深遠の姿を思い浮かべる。

 変わらない。ずっと。深遠は、深遠のまま。自分の季節だけが移り変わっているかのよう。

「私だけが……先に……?」

 維知香は、深遠が【あちら側】に行ってしまった日の思いも、重ねてしまってある。

 多分あなたは、そうするだろうと思っていた。
 私に言わず、だまって行ってしまうんだろうって。
 だけど本当にそうされると、たまらなく淋しい。
 せめて、何年後に戻るのか教えて欲しかった。
 ずっと待つ自信はあるけれど。
 知って待つのとそうでないのとでは、渇き具合がちがうの。

 人間の体のほとんどは水分だけれど、涙に使える量なんて、きっとほんのわずかよ。
 私が枯れてしまう前に戻ってね。
 あなたが好きな、うちの井戸水を飲んでがんばるから。
 戻ったらまた、私に水をねだってね。
 代わりに私は、あなたにぬくもりをねだるから。

 いってらっしゃい。
 くれぐれも体に気をつけて。

 追伸
 次に会う時も、あなたは黒いのかしら。
 できれば別の色で、会いに来て欲しい。

 読み返し、長く息を吐き、両手で顔を覆う。気恥ずかしさと、変わらない自分への失笑。幼い。けれど、思いは強い。それは今でも両方、変わっていない。

 着替えと洗顔を済ませ、居間へ。菊野がひとり、卓について茶を飲んでいた。

「維知香?」
「おはよう」
「おはよう。随分と早いわねえ」
「うん……起きているのは、おばあ様だけ?」
「桜子さんは朝市に行ったわよ。吾一は、夕べ戻らなかったみたいねえ」
「そう」

 維知香は居間と繋がった台所へ向かい、グラスに麦茶を注いで戻る。菊野の向かいに座り、ひと口飲むと、自然と息が漏れた。

「嫌だわ、朝からため息なんかついちゃって」
「ため息? 今の、ため息かしら……よくわからない」
「いやだわ、それもわからないの? 顔を洗った時、自分の顔を見る余裕もなかったのね。その顔から出るのは、ため息よ」
「そんなにひどい顔しているかしら?」
「ひどいと言うより、切ないかしらねえ……素敵な服を着て下りて来たから、てっきり深遠さんのところへ行くのかと思ったけれど……違うのね?」

 菊野の問いに答えず、維知香は自分の服に視線を移した。

 纏っているのは、浴衣を解いて誂え直したワンピース。藍色に流水紋。これと同じ色合いの生地で深遠に夏用の作務衣を作った。ひと針ひと針、深遠のことを思いながら。祖父の墓前に向かう前、深遠が荷物を持とうと言ってくれた時、素直に渡しておけばよかった。

「渡さなくて、正解だったかな」
「え、なあに?」
「なんでもないわ」

 不思議そうな表情を作った菊野に視線を振らず、維知香はごく小さなため息を零した。これはため息、と自覚をもって。


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