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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参2

 自分が作った作務衣を深遠が纏う。その隣に自分がいる。数日前までは、想像しただけで多幸感に包まれていたのに。今は、それは実現しない光景かもしれない、そう思って、何とも表現し難い胸の痛みを覚える。右手は心臓へと動く。痛みを和らげるように、手をあてる。本当の心の位置など、わからないのに。

「維知香……貴方、深遠さんと何かあったんでしょう? 三日も会いに行かないなんて、何かあったと言っているようなものよ……困っているなら、話してちょうだいな」
「困って……私、困っているのかしら?」
「それも判断できないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃなのね。貴方が自分の気持ちを定められないなんて、もしかして初めてなんじゃない?」
「そうかもしれない」
「貴方は真っ直ぐ過ぎる節があるから、たまには迷ったり困ったりするのも良い経験になるわ。恋というのは痛みを伴うものだから、その痛みを上手に誤魔化したり受け止めたり、それを何度も経験しながら、成長してゆくものなのよ」
「恋は、痛い?」
「私は、そう思うわ。夫婦の愛や家族への愛、友情、そういうものとは全く別。私も貴方くらいの時には、わかっていなかったけどね。だけど、この年になるとねえ……よくもまあ、あんな痛みに耐えたものだと、自分を褒めたくなるわねえ」

 言葉終わりに笑みを添え、菊野は麦茶を口に運ぶ。

 維知香は柔らかな菊野の気配に、言葉の続きを期待する。しかし菊野は、維知香の視線に気づいているにも関わらず、ただにっこりと笑った。

 その笑みに、維知香は涙腺を刺激された。しかし泣いたところで、何の解決にもならない。ただ瞼がはれるだけ。

「……ちょっと散歩してくるわね」
「いってらっしゃい。日傘を持ったほうが良いわよ。私のもので良ければ、どうぞ」
「ありがとう。行ってきます」

 玄関に置かれた数本の日傘。維知香が選んだのは、蛇の目に和紙の組み合わせ。白地に描かれているのは桔梗の花。中学生が持つには、少々落ち着きのある雰囲気。

 和傘に和柄のワンピース。黒髪と白い肌。涼しげな気品をまとって、維知香は歩き出す。しかし晴れ渡った空は仰がず、太陽から目をそむけるように、日傘に隠れる。いつの間にか視線は足元に落ち、乾いた小石を追うばかり。

「……答えなんて、どこにも落ちていないのにね」

 ぽつりと呟いて、ため息。吐き終わったところに吹きつける、一陣の風。顔面をぬるい風がなぞり、黒髪を舞い上げる。その瞬間。

 いちか うしろ
 うしろをみて
 はやく

 維知香の中の災厄が囁いた。風に乗じて振り返ると、そこに、白い輪郭があった。

 
 白銀の髪
 白装束
 静かすぎるたたずまい

「……貴方……とうま、さん?」
「はい。おはようございます。維知香様」
「あ……あの、おはようございます……」
「お元気そうで、何よりです。ああ、お体のことですよ」

 維知香はじっと、静かに、灯馬を見つめた。

 
 不思議

 そう表現する他ない。そこに立っているのに、その姿は現実ではないよう。まるで、自分の脳に入り込まれたような感覚。目で見ているのではなく、心で捉えている。維知香は、そう感じた。

 灯馬は沈黙した維知香に目元を緩め、そしてゆっくりと、川沿いに視線を移した。

「水面が賑やかですね。光の舞うさまを、もう少し近くで見ませんか?」

 灯馬の誘いに維知香は小さな頷きを見せ、土手を下った。

 草地に立ち、灯馬が賑やかと表した場所を見つめる。跳ねる光が目に飛び込み、思わず瞼を閉じる。瞼の裏の残像を瞬きで消し、維知香は灯馬に体を向けた。

「あの時は、本当にありがとうございました。お礼が遅くなり、申し訳ございません。お怪我は、ありませんでしたか?」
「ええ、私は丈夫なたちですから。気にかけて下さるなんて、嬉しい限りです」
「いえ……本当に、申し訳ありませんでした。反省しています。貴方にも深遠にも、迷惑をかけてしまって」
「迷惑とは思っていませんよ。それに、ごく自然なことであったと、私は思っています」
「……どういう意味ですか?」


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