見出し画像

宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参3

「脱厄術師がいくら強固な結界を施しても、貴方の中に宿るものは反応を示すんですよ。好奇心、とでも呼べば良いでしょうか。同じ匂いのする場所に行ってみたい、というところでしょうかね」
「同じ匂いのする場所?」
「それも例えなのですが……空間の狭間は、言わば全てが融合された場所です。この世の事象全てが混ざり合い、無に近い空間となっている、といった表現で、どうでしょう?」
「全てが混ざり合い、無に……何だか、矛盾しているような気もします」
「そうですね。それでは、色を思い浮かべて下さい。虹の七色。それを全て混ぜ合わせると、何色になりますか?」
「えっと……黒に近づきます。絵の具で試したことがあります」
「では、黒から連想するものは?」
「……夜、闇……死や無も思い浮かびます」
「それでは次に、虹の七色を、光として混ぜると、どうなるでしょう?」
「光として……わかりません」
「光は、色を足すごとに白に近づきます。虹色を全て混ぜ合わせると透明、つまり、私達の目の前にあるこれと、同じになります」

 灯馬は、宙を手で包み込むような仕草を見せる。

「目の前にあるのに見えない。つまり、無。空間の狭間は、これと同様の性質なんです」
「……ごめんなさい、私には難しいです……ただ、自然の一部であった災厄が、そこに魅かれるというのは、何となくですけど、理解できます」
「それで充分です。ですから、貴方が過剰に責任を感じる必要はない、と言いたかったんです。かえってわかりにくくなりましたね」
「いえ……あの、何と言えば良いのかわからないんですが……私は、知らないことが多いようです。子どもの頃から深遠に色々と教わってきたけれど、まだまだたくさん知らなければならないんだなって、あの日、強くそう思いました。それと、貴方のことも知りたいと思いました。一体、何者なんだろうって……」
「深遠様から聞いていませんか?」
「聞きたかったけど、聞けなくて……」
「そうですか……では、後ほどゆっくりと」
「あの、できれば今すぐにでも知りたいのですが」
「そうしたいところですが、ほら、あそこを」

 灯馬の視線は、土手の上を目指す。そこに女性の姿。桜子。桜子は振り返った維知香に手を振る。

「貴方のお母様ですね。朝市の帰りでしょうか? 手荷物を、ひとつ持って差し上げてはいかがでしょう?」
「はい……あの」
「宵の口は、いかがでしょう?」
「え?」
「後ほど、と申したでしょう? 日が暮れた頃、お邪魔いたします。それでは」

 胸に手を当て、ゆっくりと頭を垂れ、灯馬は姿を消した。

 維知香は目の前の光景に目を見開き、すぐに母の方を向く。今の現象を、見てしまったのだろうか。

「維知香、どうしたの? そんな所で、ひとりで何しているの?」

 ひとり。桜子は、確かにそう言った。

「お散歩の途中だったの。今、そっちに行くわ!」

 維知香は土手を駆け上がり、刹那怪訝そうな顔をしたに母親に微笑んで見せると、野菜の詰まった手提げ籠を受け取った。そして無となった灯馬の行方を思いながら、家路についた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?