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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐2

「君は、どんな時に恐怖を覚えるんだ?」
「なあに? 急にそんなこと」
「怖いもの知らずが抱く恐怖というのを、知っておきたくてな」
「怖いもの知らず!? 失礼しちゃうわ。私にだって怖いものはあるわよ……そうね、試験の答案用紙が返って来た時かしら? 理科や数学は苦手なの。期末試験の時ね、問題を解いている途中で、自分が何をしているのかわからなくなちゃって……こんなに難しいものは、学びたい人だけが学べば良いと思いますって書いたの。そしてら、先生にもお母様にも随分叱られちゃって……空欄で出すよりは良いと思ったんだけどね」

 予想もつかない内容に、深遠は、つい笑いを漏らしてしまった。

「あら、珍しい……私、学校なんて行かなくても良いと思っているの。深遠だって行ってないのよね? だけど、ちゃんと成長しているわ」
「成長すれば良いというものでもないだろう。前も話したが」
「友達云々の話はやめてね。わかってはいるのよ、わかっては……」

 背後にいる維知香が大きく息を吐いた気配を、深遠は捉えた。同時に、空間の熱が、微かに下がったようにも感じた。

「おじい様にも言われたの、亡くなる前に。心を許せる友を作りなさいって。ああ私は、最後までおじい様を心配させていたんだなって思った。だけどね、例え親友と呼べる人間が現れたとしても、宿災の事実を伝えるなんてできないじゃない? それって辛いんじゃないかなって。大切な人に嘘をつきたくないのよ……」
「そうだな。無理に自分を偽る必要はない」
「本当に? 本当にそう思う?」

 ぐいと作務衣の裾に負荷を覚え、深遠は足を止めた。ほぼ同時に、維知香が隣に並ぶ。

 見上げてくる維知香と、視線を交える。維知香の目は、深い深い黒を宿し、じっと深遠の中の真を問うてくる。

『自分を偽る必要はない』

 深遠は、放った言葉を悔いた。勿論、本心から出た言葉である。しかし本当かとの問いを受け、本当だと答えるに値しない自分がいると気づいた。これまで何度、自らを偽ってきたのだろう。とても数え切れない。

「深遠……どうしたの?」
「何でもない。行こう」

 問いに答えず、深遠は歩き出す。維知香は答えを追求しない。口を閉じ、静かに深遠の手をとる。

 ひやりとした感触を覚え、深遠は自分の体温と他者の体温の違いを意識した。当然持ち得る違いが、妙に生々しく深遠の中に入り込む。深遠は、繋いだ手をないものとして、足を前に進めた。

 罠の前に到着。捕らわれた零念は闇の色に染まり、じりじりと、ちりちりと、身を捩っている。それを祓うべく維知香は気を集中させる。深遠は後退し、維知香の背を見守る。

「見ていてね……」

 小さく、しかし確実に、維知香は深遠に向けて音を放ち、沈黙。右手を大きく広げ、罠に向けた。刹那、冷涼とした空気が場を包み込む。

 手の平の中央
 浮かび上がる環状の刻印
 飛び出したのは鋭利な先端を持つ無数の棘
 突 刺 滅
 罠にかかった闇色は刹那光り 散り 無に還る

 静かに手を下ろし、ひとつ息を吐いた維知香。深遠を振り返った顔には、満足そうな笑みがあった。

「上達したと思わない? 前は、零念を大きな竜巻で散らして、それから雪の塊をぶつける感じだったんだけど、今は雪の欠片を小さな竜巻で研磨して、鋭く飛ばす感じ。極小の矢じりを意識しているの。そうしたら、効率が良くなったわ」

 まるで祓いを楽しんでいる様子。自らに宿る災厄と通じ、技を磨くことに喜びすら覚えているように見えた。その姿が余りに無用心に映り、深遠は称賛の言葉を口にできなかった。

 零念は、もとは人間の一部。それを祓うことの意味を、彼女は本当に理解できているのだろうか。祓いに失敗すれば、その代償は宿災にもたらされるのだと、何度も繰り返し教えたはずなのに。


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